No.551 '04/6/1

五十嵐玉美が他界しました


長期療養中だった、五十嵐玉美が他界しました。

肺の悪性リンパ腫による肺炎でした。
2004年6月1日、午前7時14分
彼女は亡くなりました。

覚悟していたとはいえ、その時の知らせを受けたときは呆然となりました。
「涙は見せない」。
二週間ほど前に、予感を受けてかニ三日大泣きしていた私です。
それからは、いざという時は「泣かない」と決心していました。

次々と彼女との思い出が蘇ってきます。
彼女が振りまく屈託のない笑顔。
日本酒を粋に、旨そうに飲む姿。
お料理をおいしそうに、大きな口を開けて食べ、にっこり微笑んでいる顔。
舞台では大きく見えたあの小さい、華奢な体。
そこから発するあの大きな声。

彼女から打ち明けられた、彼女の肺の話。
実は、肺の下方は機能を果たしていませんでした。
それを押しての音楽活動。
38度、39度と熱があっても「少し熱があるだけ」なんて言いながら、「休んでは?」という言葉にも耳を貸さず、歌をうたうことを決して止めませんでした。
彼女にとっての熱は、歌うことを休む理由にはならなかったのでしょう。

大阪教育大学を出た彼女は中学校の国語の教師となりました。
その後、高校の教師も務めましたが、結局、意を決し「歌」の道に専念したいと教職を辞めました。
周りの反対に悩み、苦しんでいた彼女の姿を思い出します。
不安も正直に打ち明けてくれていた彼女でしたが、彼女の選んだ道は「歌」でした。

中学教師を務めた初年、周りの心配を押し切って、彼女は一人ヨーロッパへと旅立ちます。
その翌年に我々の「ドイツ演奏」が控えていたこともあって、「下見に行ってきます」と我々の心配をよそに勢いよく出かけていきました。
行く先々から送られてくる絵はがき。
珍道中が綴られたその絵はがきは、彼女の生き生きとして、溌剌として、希望に溢れる報告でした。
彼女のはち切れんばかりの「心」を眩く感じていた私です。
あれから16年が経ちました。

通院、入退院を繰り返していた彼女にとって、「歌」に復帰することが心の支えでした。
何度も私に、「歌いに戻ってくるからね」と言っていました。
どうしても聴きたいからと、熱を出しながらリハーサルに来る彼女。
いつでも復帰、歌えるようにと楽譜を読んでいた彼女。

病院での検査が終わると電話をしてくれます。
元気な声の「私、頑張るからね」という張りのある声も回を増すごとに弱くなっていくのを、彼女の衰弱を否定したい気持ち一杯で聞く私でした。
「さくら、見たいなぁ」、受話器からの声が今も聞こえます。
「二人で、夜桜行こうか」と日にちまで決めていた私との約束は果たせませんでした。
「本当に行きたかった」と小さく暗い声で電話をしてきた彼女の様態はもう出かけることもできない状態になっていました。

41歳、五十嵐玉美。
玉美さんは微笑んだ顔で休んでいました。
とても安らかで、美しく休んでいます。 肌は冷たく、もう眼も開きませんが、玉美さんの「生きた姿」は確かに私たちと共に心の中に居ます。
私が初め渋っていた合唱団作り、その私にやる気を起こさせた玉美さんです。
「大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団」を共に作った玉美さんです。
玉美さんがいつも言っていた、「死んだら、一杯歌って送ってね」を実現させるつもりです。
お通夜が3日(木)
お葬式が4日(金)

「音楽葬」は13日に予定しました。


No.551 '04/6/1「五十嵐玉美が他界しました」終わり