キリシタン史 布教開始〜許教時代


1549年8月15日、聖母マリア被昇天の祝日にイエズス会士フランシスコ・シャヴィエルが鹿児島に上陸する。彼は、布教のための入念な準備をして日本にやって来たのだ。

当初インドに布教にやって来たシャヴィエルはその地の布教状況に絶望し、その目は新天地に向けられるようになっていった。日本を知ったシャヴィエルは、マラッカで薩摩の武士アンジロー(又はヤジロー)達と出会うこととなる。日本の状況を彼らに聞き、シャヴィエルは日本布教を決意する。

アンジロー達3人の日本人が洗礼を受け、最初の日本人キリスト教徒となる。日本布教の準備のため、彼らは大変シャヴィエルの役に立った。アンジローはポルトガル語を習得していたため、教理書などの日本語への翻訳にあたった。インド布教に使われていた小カテキスモや、マタイ福音書なども邦訳されたようである。
またシャヴィエルは、日本で指導的立場に立てるように、とアンジロー達に徹底的にキリスト教の教えをたたき込む。イグナチウス・ロヨラ著『霊操』に基づく「心霊修行」まで受けさせていたらしい。

こうして日本にやって来たシャヴィエル達ではあったが、布教を順調ではなかった。
新しい土地で布教する時は、その国の国王に布教許可をもらい、あわよくば国王を改宗させ布教を押し進めていくのがキリスト教会の基本方針であったが、日本の国王、つまり天皇は権威を失墜していたので、うまくいかなかったのだ。そうして彼は、当時西の京と目されていた山口を布教の中心とすることになる。

当初キリスト教は天竺宗などと呼ばれ、インドから来た新しい仏教の一派と思われていた。山口で教会建設のために寺院を与えた大内義長も「仏法紹隆のため」などと言っている。これには理由があった。一つはシャヴィエル達がインドからやって来たこと、一つには言葉の問題があった。
シャヴィエルは布教に際して、その土地に出来るだけ順応するように努めた。その土地の食べ物を食べ、その土地の着物を着ると言ったように。言葉も同じように、日本の言葉で教えられるよう、アンジローに訳してもらった。しかしアンジローは元々真言宗だったらしく、訳に際して仏教用語が多く使われる事となってしまったのだ。Deusを大日、Paradisoを極楽、Animaを魂、と言ったように。
しかし、既存仏教との違いを感じていた仏僧との交流、討論などで、その概念の全くの相違を知ったシャヴィエルはあわてて「大日を拝み奉れ」から「大日な拝みそ」と取り消しの説教をおこなうようになった。
それから、DeusやAnimaといった概念が仏教のものと違ったものは、ラテン語やポルトガル語の言葉を使うようになった。しかし順応主義はそのままに、概念が近いものは引き続き仏教用語も使用された。

シャヴィエルは2年ほど日本に滞在し、布教の種子を蒔いてインドに去った。その間に日本でキリシタンとなった者は700人ほどであったという。
彼の布教の姿勢は、次代の布教長トルレス神父、そしてヴァリニャーノ神父に受け継がれていくのであった。

シャヴィエルと共に来日し、シャヴィエルが去ってからその後を継いだ、コスメ・デ・トルレス神父。彼はシャヴィエルの精神を受け継ぎ、日本布教に際して日本に順応する適応主義の姿勢で臨んだ。
すなわち、日本人と同じものを食べ、同じものを着、同じ所で眠る。また日本を知るため彼らは相当研究していたようだ。日本文学(平家物語など)がキリシタンによって写本されていたりしたのだ。神儒仏の三教、特に仏教の研究にも熱心であり、仏僧との討論などもよく行われていた。
「日本布教の際には、ローマの教会法の適用を待ってくれ」という内容の書簡がローマ宛に送られたりもしていたのである。

ともあれ、最初の十年ほどは苦難の道であった。仏教勢力による迫害(直接ではなく、支配者を通じたものが多かった)、「でうすは大嘘(だいうそ)である」などと喧伝されたりした。また朝廷から、伴天連追放の綸旨が下されるなど、順調という言葉とはほど遠かった。
しかし宣教師達の地道な布教で各地に少しずつキリシタン教界が生まれていった。

1560年代に入ると、ポルトガルやスペインとの貿易による利益に着目する大名や、キリスト教の教えを封建体勢の強化につなげようとする大名も現れ、保護を受けたり、また大名自ら受洗する者も出てきた。
こうなると、信者が増えるのは速い。大名が受洗すれば、おのずと臣下の者達や領民の改宗が進むこととなる。これまで10〜100の単位でしか増えなかった信者が、あっさり1000や10000の単位で増えるのである。
各地に教会、病院、神学校も建てられ、キリシタンは急速に増えていった。

宣教師達は布教に際して、自然科学の講義から始める事があった。世の中の理を説き、そこからでうすの存在を証明するのである。自然科学が発達していなかった日本では、この方法は有効であった。
また神学校などでは、仏僧との対決に備えて討論の練習が必須であった。

信者が増えるにつれて、洗礼や教会の儀礼を行う神父や修道士が不足するのは、当然であった。なので、日本人の平信徒に、洗礼を授けたり、ミサを行ったりする権限が与えられる事も普通であった。こういった体制が、潜伏時代になっても信仰を維持させる事につながったのであろう。

1570年、トルレス神父にかわり、カブラル神父が日本布教の上長となる。彼はシャヴィエル以来の日本適応政策を弱め、貿易による有力大名との結びつきで布教を拡大しようとする。織田信長のおぼえが良かった彼は、それに成功していたが、信徒や宣教師達からの評判は良くなかった。それでも布教体制は整っていった。
そして1579年、巡察使ヴァリニャーノの来日によって、日本での布教体制は確立する。
彼は日本適応政策を再び推進し、布教体制を整えていった。日本を独立した布教管区とすること、ローマとの通信体制の整備、布教費用の確保など次々と押し進めた。

1582年、ヴァリニャーノは天正遣欧少年使節を引き連れ、ローマに向かった。
折しもこの年、本能寺の変が起こり、キリシタン教界の保護者・織田信長が非業の死を遂げる。しかし、しばらくはキリシタン教界は、布教拡大政策と適応主義がはまり、順調に信者を増やしつつあった。

1587年、突如豊臣秀吉より、伴天連追放令が出されることとなる。その頃にはキリシタンは二十万人を超えるとも言われている。



秀吉の伴天連追放令