【現代音楽シリーズ】折口信夫「死者の書」あらすじと解説New


折口信夫による小説「死者の書」をもとにした、今回の委嘱作「舞台アート音楽作品『GAGAKU I II』」。
その魅力に迫るため、「死者の書」の成立とストーリーについてご紹介します!


折口信夫『死者の書』

【成立】

・『死者の書』は1939年(昭和14年)、雑誌「日本評論」の1、2、3月号に、それぞれ『死者の書』『死者の書(正篇)』『死者の書(終篇)』と題して3回にわたり連載された。
 ※折口、このとき53歳。
・その後、章段の変更、字句の補訂等、大幅に手が加えられ、1943年(昭和18年)9月、青磁社より刊行された。
・題材として採り上げられているのは、主に次の二つの物語である。
 (1)「日本書紀」や「古事記」に伝えられる大津皇子の物語
 (2)『当麻曼荼羅縁起(たいままんだらえんぎ)』に伝えられる中将姫の物語

【内容(あらすじ)】

※物語の中心にあるのは、当麻寺に入って出家し、阿弥陀仏の助けを借りて 蓮糸の曼陀羅を織り上げ、現身のまま成仏したという、中将姫伝説。この中将姫にあたるのが、主人公となる藤原南家郎女(横佩家の郎女)。

冒頭、二上山山頂に眠る死者が目覚めるところから物語は始まる。
この死者が、郎女が思いをかける相手なる大津皇子(滋賀津彦)。謀反の疑いをかけられ、非業の死を遂げたとされている。

墓の外で「こう こう こう」と魂乞いをする声が響いている。
それは郎女の魂を呼ぶ声だったのだが、墓の中の死者(大津皇子)が呼応して目覚めたのだった。

麓の山田寺には郎女がいる。
同じ部屋には、地元の豪族、当麻氏の氏族の語部の老婆がおり、大津皇子の話を聞かせている。

その話とは、
・大津皇子は死の間際、耳面刀自にかけた思いが心残りになっていたこと
・そしてこの耳面刀自は、郎女の祖父の叔母にあたる人であること
・郎女は、その力に引かれてこの地を訪れたのであろうこと

郎女は、自分を招く人の俤をすでに見ているが、その人が大津皇子とは思えない。
すると語部の老婆は、さらに古い天若日子の伝説を語る。

大津皇子は、この老婆の語りに、遠く墓の中から耳を傾けていた。
こうして彼は、徐々に記憶を取り戻していった。

<<<ここで物語は、郎女が一人藤原京の館を出たところに戻る>>>

当時、権力の中枢にいた藤原氏だが、藤原南家当主・豊成(郎女の父)を押しのけ、その弟・仲麻呂の威勢が高まっていった。

郎女は、広嗣の乱の巻き添えとなり太宰府に左遷させられた父から送られてきた、阿弥陀経の写経を始めた。
大陸に開けた大宰府からの贈り物は、郎女の心を引きつけるのに十分であった。

郎女は、ちょうど写経が九百九十九部まできたところで、遠く二上山に自分を差し招く人の姿を見る。時は春分の日であった。
その夜、千部を書き終えると、郎女は屋敷を出て、山に導かれるように女人結界を破り、山田寺の奥深くに入っていった。

<<<ここで大伴家持が登場。家持の視点から当時の藤原京の様子を描写>>>

山田寺では、女人結界を破った郎女の処遇を巡り南家と寺側が対立するが、郎女自身の「姫の咎は、姫が贖ふ」という言葉によって、寺に留まることになる。

庵に暮らす郎女の下に、近付いてくる跫音がある。
怯えた郎女は咄嗟に目を瞑るのだが、その瞬間、帷帳を掴む白い手が見え、思わず「阿弥陀ほとけ」という言葉が口をついて出る。
怖さが消え、安らかな気持ちになり、夢の中でも郎女はその人の姿を見る。

季節は春から夏へ移り、郎女の周囲では、蓮の糸縒りが始まる。
そして彼岸中日、秋分の日、郎女は一人、寺の門から二上山を眺め、その人に「今すこし著く み姿顕したまへ」と願う。
すると雲が下りてきて、山端から尊者が姿を現した。

郎女は「はやうあの素肌のお身を、掩うてあげたい」と機を織り始める。
途中、機を織る手が止まるが、剃髪した尼が現れ、助けとなる。
その尼の声は当麻の語部の老婆の声で、隼別王子と女鳥の姫のエピソードを語る。

そうして秋が深まったころ、五反の布が織り上がった。
着物を縫おうとする郎女の前に、再び尼が訪れて、僧伽梨にするように言う。
郎女はそれを縫い上げ、最後にその上に絵を描いた。
こうしてできあがった曼陀羅を人々が賛嘆して眺めるうち、郎女は姿を消した。

(解説:内野浩介)


「死者の書」の世界には、歴史の流れに刻まれた人々の思いや、古来から日本人の心に蓄積され脈々と流れるものが詰まっています。
それらが今月26日、いずみホールの舞台に鮮やかに立ち現れます!

現代日本の音楽、文化芸術にとって新しい試みとなる作品です。
その初めての舞台が生まれる瞬間を歴史の証人として、ぜひ私たちと一緒に体験してください!

【2008/10/15】