チェロ/大木愛一、バルトークを語る


マンスリー・コンサートで小品を連続演奏しつつ、このディヴェルティメント演奏に向けて準備を進めてきたシンフォニア・コレギウムOSAKA。チェリストの大木愛一氏に、バルトークについて語っていただきました。

   **  **  **  **  **  **  **

ベラ・バルトークは1881年、ハンガリーで生まれました。
この曲は1939年8月、ちょうど第二次世界大戦の勃発した時期に作曲されていますが、その翌年1940年に彼はアメリカに移住し、1945年そこで生涯を終えています。

ヨーロッパを嫌って米国に渡った彼の中には、全体主義に対するアンチテーゼとしての『多様性に対する愛情』があったと私は考えます。
すなわちリズムや音色の多様性であったり、瞬間の調性の一見不協和で刺激的に見える半音のぶつかり合い、旋律の豊かな歌い回し、そのようなものに対する愛情が、彼の音楽の中から紡ぎだされるのです。

私の小学生時代、図書室の「偉人伝コーナー」で読んだと思うのですが、バルトークは太鼓が好きな赤ちゃんだったそうです。長じて、リズムに語らせる音楽家になったのですね。

また、聞いていただくと、旋律の頭に現れる鋭い高低アクセントや逆付点のリズムなど、しばしば耳に留まるモティーフが出て来ると思うのですが、これらは実はハンガリー語の語感から来ているのです。ドビュッシーを理解するのにフランス語が、ベートーヴェンではドイツ語の理解が不可欠な様に、彼の音楽を理解するためにもハンガリー語を知っているということは大切な様に思います。(編注:大木氏は88年~89年の1年半ハンガリーに滞在、音楽活動をされていました。実際にインタビュー中、少し日常会話を話していただきましたがそのアクセントやイントネーションはやはり語頭が高かったり、鋭い高低差があったり、おっしゃることがとてもよく理解できました)

このディヴェルティメントは、バーゼル室内管弦楽団の委嘱により作曲されましたが、この団体は当時の気鋭の作曲家に順繰りに作曲を依頼し、芸術の振興に貢献した団体と言えるでしょう。ただし自団の編成上、楽器については「この本数以下で」と条件をつけたにも関わらず、逆にバルトークは「最低限この本数以上で演奏すること」と前書きに明記しており、何と言うか彼のこういう性格もおもしろいなあと思います。

この曲は3楽章から成っています。
特に第2楽章では「葬送の鐘」のテーマが印象的で、最初は密やかなすすりなきが、こらえきれずに激しい嗚咽となり、嘆きと叫びが交錯するのです。また終楽章では一転「お祭りの雑踏」となりますが、これは人間への愛情につながると私は考えています。

   **  **  **  **  **  **  **

満を持して、SCOのバルトーク。熱い弦楽のうねりに、ぜひご期待下さい。

【2009/10/23】