No.622 '06/10/30

「マタイ受難曲」を終えて


いろいろな意味で節目となった演奏会でした。
バッハで始まった私の演奏歴。
オルガンでバッハを弾き、指揮をして「カンタータ」や室内楽、そして「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」「ロ短調ミサ」。
特に「マタイ受難曲」は「ヨハネ受難曲」と対としての思い入れがあり、何度も演奏したいと思わせる大曲です。

しかしその演奏には、編成や楽器の幾つかの問題を含みなかなか実現しにくい曲でもあるわけです。
三時間にも及ぶ曲。その練習には相当時間がかかります。いわゆる寄せ集め、臨時メンバー(いわゆる「トラ」と呼ばれるメンバー)が多いという状態では内容に迫る演奏は不可能だと思います。
バッハに精通し、曲の内容も識り、アンサンブル力があり、尚かつ互いに息づかいまで図り取る、とならなければ巧くいかないのがこれらの曲なんですね。
「一緒の釜の飯を食べるメンバー」が揃っての演奏が理想なんです。
バッハの時代、カントールの監督のもと、演奏者が全て教え子や薫陶を受けたメンバーであったということ、それに「キリスト教」という共通した文化の中にあって生まれた作品だったということがそのことを物語っています。

「同じ釜の飯」というイメージで活動してきた我が団です。(笑)そして私がキリスト教の音楽に惹かれているということからも必然的にこの曲の演奏へと向かわせました。
しかし何度も書いてしまうのですが、実際にはなかなか難しい問題が横たわっているわけです。

さて、昨日の演奏は・・・・というと。
幾つかの曲で突然のアクシデントや意図通りにいかないところがあったものの、概ね私の想い描く内容に迫ることが出来たのではないかと思っています。
合唱はいつもながらの真摯な演奏をしてくれました。彼らの曲に対するその練習内容はいつもながら「凄い」と思わせる量と質です。
これほどに作品に対して献身的な練習をする団はそう他にはないのではないでしょうか。
独唱はもっと安定した歌唱力を望むところではありますが、その成長度が高まっているということで次に繋がるという思いがあります。
オーケストラでは第一部の終わり近くと最後の曲での思わぬテンポのズレでハッとさせられましたが、(合唱団の中には初めて私の「怒った棒」を見たと言っている者がいるらしいです。(笑))とはいえ中盤から立ち直ったのはさすがです。(休憩時間には仲間であるオーケストラからも、そして合唱団からもこのことで「残念」を越えて悔しさで涙を流していたメンバーもいたと聞いています。〔こういう反応を示す団であることのいわゆる舞台に立つ者としての健全性を私は嬉しく思います〕)
大木愛一のチェロの音に、棒を振りながら音楽することの喜び、そしてあらためて「音楽の力」というべきものを感じていました。
コンティヌオ奏者としても、そして独奏者としてもその迫真に迫る演奏がどれほど私を心強くまたイメージ力を増してくれたことか。
「SCO」との活動、その喜びを味わいます。

J.S.バッハの人と作品、そしてその受難曲のテキストであるイエスの生き方、そして彼を取り巻く人々とその伝承や歴史に関心と共感を覚える私の、幾度目かの区切りを示す演奏会でした。
その私の思いを聖書解釈という側面から強く勇気づけてくれていたのが聖書学者である田川建三氏の数々の著作でした。
その氏の訳を頂いての演奏です。
氏の「聖書解釈という問題より皆さんはバッハを演奏される、そのことに最善を尽くされることです」(「」内は言葉通りではありませんが、そういった内容のメッセージを頂いています)、これは卓見です。
このメッセージに私はどれほど勇気づけられたか!
尊敬する氏からの言葉ゆえになおさらでした。

沢山の方にご来場いただきました。感謝です。
ステージから見えるそれぞれのお顔から、3時間という長時間にもかかわらず真剣に耳を傾けて頂いていることを感じ取り、音楽家としての大きな幸福感を抱きました。

私の「マタイ」は終わりました。
暫く休憩といきたいですね。(笑)

しかし、そうは言ってられないのですね。次は「クリスマス」です!


そして来年度のバッハは「ロ短調ミサ」ということになりますか・・・・・・。



No.622 '06/10/30「「マタイ受難曲」を終えて」終わり