No.629 '07/04/03

〔怒り〕の意味を説明できるかもしれません


ふと手にとってパラパラと斜め読み。
出先で入った書店でのことでした。
題は「〈かなしみ〉と日本人」、NHKラジオ「こころをよむ」のテキスト本です。

私がずっと気になっている詩人「宮澤賢治」のことが「第一回〈かなしみ〉の可能性(何が問題なのか)」に取り上げられているのですが、その始めの方に〔怒り〕についての記述があって、それが私が「言いたかったことなのだ」叫びたくなるような内容だったのですね。

〔怒り〕ということについてはことあるごとに私が口にする言葉です。
これまでに多くの誤解を生みました。明らかに反対論も出ました。あるいは拒まれました。それらはきっと〈憎しみ〉〈恨み〉に繋がる危険性を思われてのことだったからでしょう。そしてもしかするとその根底には、仏教で言われるところの、取り払わなければならない〈煩悩〉としての側面が根強く人の心の底に根を張っているせいかもしれません。
とにかく〔怒り〕は負の感情として一般的には思われているようです。

しかし、私のいう〔怒り〕はそのようなものではありません。もっと積極的な意味を持つ人の営みであって、人生を充実させていくもの、より<他>との協調や一致を生み出す大切な感情だと私は捉えます。
その本には次のような記述がありました。
「〔怒り〕というのは、正義という問題も含めて、人が誇りあるあり方を求めるにおいては極めて大事な感情であり、大きなエネルギーを生む感情でもある」と
「正義」、「誇り」、「大きなエネルギー」
引き込まれました。

記述は続きます。ただ、「人間にとって大事な感情でもある〔怒り〕はそれだけの感情ではなく、そこにさらに何かが必要なのではないのか?」と。

この手に取った本を最後まで詳細に読んだわけではありません。まだ放送も聴かず、本の主旨に沿わない私の思い過ごしかもしれないのですが、確かに私はこの一文を私自身のこととして納得することができたのですね。

本の目次に戻って全体を眺めます。
テーマ・主旨は〈かなしみ〉です。
この本は〔怒り〕についての考査ではありません。〈かなしみ〉を考査するものです。
〈かなしみ〉を考査するために〔怒り〕を例に出していたわけです。その箇所をまず私は目にしたのですね。
〔怒り〕の底にあるもの、その何かを探る試みとして〈かなしみ〉という感情を考えよう、と始まったのです。
私は〔怒り〕に執着していたのですが、〈かなしみ〉とは未だ結びついてはいませんでした。しかしこの一文によって光明を見たわけです。私自身の根っこを見た瞬間だったかもしれません。

第13回放送、「〈かなしみ〉と日本人」の中で次のように〈かなしみ〉を説明しています。
「すなわち、〈かなしみ〉とは、まずは、われわれの思いや願いの届かなさや叶わなさ、その意味での非力さ・無力さの有限性を感じとる感情である」と。
〈かなしみ〉、これは探し求めていた言葉だったかもしれないととっさに思いました。

いつも歯がゆく心のなかで叫んでいた私。
〔怒り〕の感情と一緒に流れる(底にある)もう一つの想いを解って欲しい!
この説明がなかなか出来ず、〔怒り〕という言葉を口にする時に慎重になっていた私。
でも、これからはもう少し積極的に〔怒り〕を発揮できるのではないかと思いました。
私の〔怒り〕は〈恨み〉や〈憎悪〉に因るものではないからです。
激情ではなく、冷静に考えた結果だからです。
常に自分自身に対して、そして相手の〈かなしみ〉の感情が元にあるからです。
<一緒に考えたいです><一緒に進みたいです>との想いが根っこだからです。

以前私が書いたページに、〔怒り〕そして〈かなしい〉という言葉が出てきていました。(「哀しい」と漢字では書いていますが)

“No.594  怒りの“涙”(加筆/05/08/24)('05/8/22)”

私の底に流れるのは〈かなしみ〉です。〔怒る〕のは〈かなしみ〉を想うからなのですね。
ですから、怒ってすっきりしたことなど一度もありません。〔怒った〕後に来るものはいつも〈悲しい〉気持ちでした。
ほんとうにいつも〈切ない〉気持ちになるのでした。

この講座、放送は4月1日から始まりました。ちょっと楽しみな内容です。

【追記】
「マイヌング」に並行して書いていることがあるのですが、これが私の激情の〔怒り〕の結果と受け取られはしないかと心配します。
そのことで少し書くことを躊躇していたのですが、書くことにしました。その理由はやはり〈かなしさ〉でした。
書き手の〈かなしみ〉の無さに哀しんだからでした。
誤解無く、〈かなしみ〉というものが伝わればいいのですが・・・・・・。



No.629 '07/04/03「[〔怒り〕の意味を説明できるかもしれません] 」終わり