八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.27


【掲載:2014/05/01(木曜日)】

やいま千思万想(第27回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

[八重山文化の根っこを残して]

 何万年前の世界地図を見たいとはお思いになりません?
私はときおり眺めてみたりします。
見る目的は人類の拡散と移動経路、そしてその生活ぶりを想像してみること。
地図を見ながら地理学的に衣食住に思いを巡らせるなんて最高の知的な遊びだと思います。
ですから、このコラムでも再々に渡って取り上げたいテーマの一つでもあります。
人が営む生活様式や思考傾向は気候と地形に影響されますから、それに思いを馳せて地図を楽しんでいます。

 私が住む大阪は、約200(あるいは150)万年前、アジア大陸から飛び出た陸続きの半島の中程、南側に位置する場所です。
今日の列島で際立った地形を成す瀬戸内海はまだありません。
大陸からは多くの動物がやって来ていました。
瀬戸内海が誕生したのは縄文時代(約1万2000年前〜約3000年前)の始め、その後も温暖化による海面上昇が起こって約7000〜6000年前には海水が押し寄せ(「縄文海進」)平野の浅地は海と化します。

 現代では大阪を生駒山頂から見ればため息がでるほどの絶景の平野なのですが、縄文時代は海だったのですね。
その浅い海を二分するように海底の隆起活動によって盛り上がって突き出てきた南北に伸びる台地がありました。
それが現代の中心地でもある「上町台地」で、その縁辺の地名が現代にも受け継がれていて興味をそそります。
難波(なんば)はヤマト王権(大和政権)の港の名前。
その潮流が速いために「浪速」と名付けられ、また波頭を花に見立てて「浪花」、「浪華」とも称されました。
「大阪(大坂)」の名も地名の一つ「ヲサカ」からきているようですね。
このように人や動物たちの動きが海面の上昇・下降の反復によって変化し、生活圏を作り営んでいく。
それらの想像は本当に楽しいです。

 転じて、八重山に思いを馳せます。
琉球列島も中国大陸と陸続きであった時代がありました。
日本列島と同じ時期ですね。
そして約2万年前、海水の上昇で各諸島が海によって分断され、現代のような地理となって独自の文化(三つの区分、すなわち薩南諸島の北部、沖縄諸島と奄美諸島の中部、宮古と八重山諸島の南部)を歩み始めました。

 その中でも一番南の八重山は文化的に本土の影響を受けずに来ています。
それは地理的要因によるもの。
北部や中部は本土の文化の影響が強くあり、南部はそれとは違って独自の貴重な文化が形成されたのだと、このコラムで度々指摘してきたことです。
しかし、現代に至っては歴史始まって以来の本土文化の南下が押し進められているのではないか、そう思います。
 テレビや飛行機といった文化を運ぶ道具は強力で速いです。
八重山文化の根っこである音楽や言葉、地名や風習を残して欲しい。
本土文化のコピーでなく、無理矢理の本土化政策推進でなく、八重山の気候と地理的条件を源として連綿と続く文化を残して欲しいと、地図を広げては思わずにはいられない私です。





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