八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.33


【掲載:2014/07/24(木曜日)】

やいま千思万想(第33回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

[私は指揮者。その誓い]

 私は指揮者。
魅力ある仕事ではあるのですが、しかし一体どのようなことをしているのか?
なかなか解りにくい職業ではあります。
別に音や声を出して演奏しているわけでもなく、演奏者の前にはだかって腕を振り回し、何やらサインを送り、権力の塊(かたまり)の独裁者のように振る舞うかと思えば、自分に酔いしれて悦に入っている風体にもなる。
10人から200名余りの演奏者を腕と手や棒によって操っている様子は暴君のようでもあり、または神、はたまたピエロのようでもあって、やはり不思議な異人の類です。

 指揮者がいなければ演奏はできないのか?いえいえ、そんなことはありません。
奏者が腕達者、真の音楽家であれば指揮者は必要ではなくなります。
いや下手な指揮者であれば大いに邪魔者になることだってあります。
一言で言うならば、指揮者の仕事って奏者にとっての「便利屋」的存在。音の出を揃えるタイミングを図り、音を強めるところ、弱めるところ、またはテンポとその変化を示し、スムーズに演奏できるよう奏者を助ける存在です。

 その指揮者が大いに存在をアピールできる時といえば、それは演奏の始まりと終わり。
緊張感に満ちた曲の始まりやクライマックスを迎えての中、興奮や静寂へと導く曲の終わりがそれです。
これらのことを示すだけでも一応指揮者は務まります。
しかし、それだけでは高額な出演料を取る理由にはなり得ないですね。
指揮者が指揮者として成り立つ理由が実は他にあります。
それが解釈。音楽の深い意味を解き、音楽に生命を吹き込む。
そのための熱い思いを伝え、奏者が活き活きと音楽づくりに専念できるようそれぞれの「音楽家魂」を引き出し、音楽の喜びを奏者と共に深く感じ合う。
それこそが真の指揮者の役目なのですね。

 では音楽の深い意味とはなんでしょう。その説明をする前に次の質問をしてみますね。
「ポピュラー音楽はせいぜい3分や4分の長さなのに対して、クラシック音楽って何故あんなに長いのか?
(一時間を優に越える曲があります)」
さあ、いかがですか。
その答えはですね、「クラシック音楽は結論を言う前に、説明し、その気持ちや情景を示そうとする。
心情、背景の全てを表した上で結論を言う。
そのための長さ」ということです。
ポピュラー音楽の手っ取り早く結論を簡潔に言ってしまうスタイルとのそこが大きな違いです。

 暴君にも例えられる指揮者の振る舞い。
しかしその内実は様々な葛藤を生む疾風怒濤の様相。
格好良く見え、多くの人の憧れの職業とも言われる指揮者なのかもしれないのですが、音楽作りのリーダーとして責任の重さに押し潰されそうになることもしばしば。
 ただ、堅く心に誓っていることがあります。
音楽現場は人と人とがぶつかり合う血が通う真剣勝負の場、信頼で結び合うことを目指して対峙と協調を行き交う世界です。
世の中にあって責任逃れが横行する中、その責任はしっかり取ると誓っています。





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