八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.41


【掲載:2014/11/12(水曜日)】

やいま千思万想(第41回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

[「人」が音楽をつくる「音楽」が人をつくる(4)]

 合唱団づくりには苦い想い出もあります。
そう多くはないのですが現在まで尾を引いている場合は心が疼(うず)きます。
退団となった人との別れですね。
その後が気になる、いや心配です。
出会いと別れは誰にもあるでしょうが、「本当にその判断が良かったのか」が気になる性分の私です。
就職、引越、転職ならば致し方ないと思えるのですが、話し合いが持てず去って行ってしまった人たち、理解し合えないで決別した場合などは後に残ります。

 今回は一人で決断して離れてしまった「負けず嫌い」のW君のことを書いてみます。
W君も大教大(大阪教育大学)の学生です。
合唱団では貴重なパートのテノールです。
日本人は声の高い人も決して少なくはないのですが、合唱の分野では少ないのですね。
その貴重なパートの一人として入ってきたW君、美声に加えて頑張り屋さんでしたからいきなり中心的存在となります。
勉強家でしたね。
私に見せたノートにはそれまで習ってきた発声上の記述などがぎっしりと書かれています。
我流に近いメソードになっていましたが、彼はそれに添ってコツコツと努力を重ねていました。
しかし、その根っこが「負けず嫌い」であったことで別れに繋がります。

 事が一気に流れたのはドイツ公演です。
村の教会を借り切ってのCD制作のための録音。
その演奏が彼にとって上手くいかなかったのです。
私が駄目出しをします。何度歌っても上手くいかず、私はその曲の収録を断念することを伝えたのですが、彼は「もう一度」「もう一度」と何度も挑もうとして譲りません。
もう「意地」としか見えない状況でした。結果はやはり上手くいかず、収録を断念します。その時、退団を決意したようです。
 彼は団員の女性と結婚をしていたのですが、その後二人は部屋に籠もりがちになり、単独行動が多くなり、会話も少なくなって皆との距離も離れ始めます。
以前、彼の声と音楽を伸ばそうと意見した折り、私も若気の至りでしょうか(しかし私は真剣に彼のそういった性格と向き合っていました)大立ち回りをしたことがあるのですが、その時彼が叫んでいたのは「負けるもんか」と言う言葉でした。
ドイツ公演時、W君は自分に対しても、そして私に対しても、「負けた」と決断を下したのだろうと思います。彼は男の闘いをしていたのでしょう。
 老いた母の介護もあって退団を決意したと言ってきた彼、その時、真剣な顔できっぱりと「離れても音楽はこれからも続けます」と自ら約束して去って行ったのですが、現在、交わしたその約束もなかったかのように彼は教育現場を離れ、今では教師を指導するポストに就いているようです。彼の人生、今に至るまで「我流」でした。
今、若気の大立ち回りの際に折った私の右手中指の指先を見ながら(鍵盤奏者を離れ指揮者へと決意した出来事でした)、強く心が疼いているのを覚えます。
入団して輝いていた頃の彼の美声と真っ直ぐな歌は今でもCDに残っています。





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