八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.45


【掲載:2015/01/06(火曜日)】

やいま千思万想(第45回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

[郷土文化を捨ててはならない、絶やしてはならない]

 実は私の心の底で躊躇する気持ちがあります。
それはこの最古の日本文化の宝庫の一つである「八重山」の中に西洋文化、それも核心的なものを紹介することが果たして良いものか?という躊躇です。
余りにも西洋的な考え方、異なる感じ方を植え付けて良いものか、という問題なのです。

 芸術とは作者の個性の創造性に拠る、ということは当然ですがその底にあるものは人の歩み、つまり生活の中にあるというのは自明の理でしょう。
 文化とは生活です。その文化の対極に位置する異なるものを合わせるのは可能なものなのか。
文化の「接ぎ木」的な結合でよいものなのでしょうか?
動植物でいうところの「生態系」の問題でもありますね。
もし間違えれば、ある種の根を絶やすことになってしまうのではないか。
新しい種を生み出すということは、どちらかがどちらかを駆逐してしまうということでもあります。
 古いものは消え、新しいものに取って代わられる、それが進歩というものだとの声も聞こえてきそうですが、これはそう単純なものでなく、一度深く考えてみる必要がありそうです。
「滅ぶべきものは滅んでも良い」というのは、傲慢かつ偏った一時的な力関係の考え方なのかもしれないのであって、長い年月を経た後、その事がとんでもなく惜しまれ、
回避できるものならば回避して欲しかったと悔やまれることも大いに有ります。何をもって滅ぶべきものとするのか?
これらの事は様々な歴史上の事象が証明していることだとも思うのですが、いかがでしょう。

 気候が違い、食も違い、住の素材も違い、決定的には言語が違う。
言語が異なるということは思考の仕方が異なるということです。
はたして思考の仕方が異なるものを享受することができるのでしょうか?いや、享受していいのでしょうか?という自問自答が繰り返されてきた私です。
間違いなく私は日本文化の中に育ちながら(そうは言うものの実は私の根っこは日本文化であるか?という疑問が幼い頃からありました。
 私はヤマト文化に染まりきれなかった、両親の血である異文化の、つまり沖縄文化の影響がありそうです)、途中からハインリッヒ・シュッツやバッハという西洋文化に影響を受け、それを良とし、成り切りたいと願ってきた日本人です。
西洋文化を体現し、その魅力を解明し、結果としての演奏が本場で認められ、現在はそれを生業としている私。
その私が本来の日本の文化を捨てつつあるのではないかと識ったとき愕然となったわけです。

 日本文化を捨ててはならない、絶やしてはならない。これは現在の確信です。
グローバルな思考の中、日本人としての感性、テクニックを持ってこれからの日本文化を音にしていく、その志向です。
これは接ぎ木的な文化形成でしょう。しかし未来の人たちが元木を識りたいと願った時それが追える、識ることができるものでありたいと思っています。それが私が最後に得た結論です。





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