八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.69


【掲載:2016/01/14(木曜日)】

やいま千思万想(第69回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

さまざまな音世界 音律の話(その14)〔最終項〕

 このコラムのNo.55から、西欧音楽の核心である「音律」について書いてきました。
去年(2015年)6月から始まった連載で13回目まで続いています。
要は、日本音楽との比較だったのですが、思いの外この問題は大きく、そして複雑で深刻であることに気付かれた方も多かったのではと思うのですが、いかがでしょう。
実のところ、西欧音楽文化とは大きく隔たった音の捉え方をしてきた日本人なのですが、明治以降150年が経とうとする現在ではそのギャップが有りながらも、それを超えて音楽を共有していることに不思議さと驚きを感じる毎日です。

 西欧では、ピタゴラス音律 → 純正律 → ミーントーン(中全音律 → ウェル・テンペラメント(程よく調整された音律) → 平均律とたどってきた音律(音の並べ方)の流れでした。
まとめて言えば、鍵盤楽器を中心に発達してきた西欧音楽での合理的な利便性への探求。
響きで言うならば「純正」から「濁りの許容」への受容史であるということになります。
一見、到達し定着した「平均律」が現在音律での完成のような印象を与えますが、音楽の底は深く、まだまだ全ての人々が納得できる音律とはなっていないということを書きたかったのですね。
 西欧の音律が唯一絶対ではないとの対比として東洋の音が描く感受性を示したかった、それがこのテーマを取り上げた理由です。
本土の伝統音楽しかり、しかし、ここ八重山の音楽に特に惹かれるのは本土にはない古層の流れがあると思われるからです。
西欧と対峙する「不合理」といいますか、「人間的」な音のつくりが残っているのではないか、そのことへのノスタルジー的な魅力です。

 「人間的」な音とは何か。それは微分音(半音よりさらに細かく分けられた音程)を指します。この音とて合理的に作り出したり、計算的な演奏もできるのですが、そうではない人間としての感覚的な音程のことをいいます。
 八重山にはその流れを汲む音が存在します。それには、インドネシアのジャワ島やバリ島に伝わる音階の影響があるのではないかと見る学者の方もおられるのですが、たしかにガムランのようなドラや鍵盤打楽器の微妙で繊細な音階の影響があるかもしれませんし、また遠くはシルクロードによる中近東からの音の伝達も影響しているかもしれません。

 本土の伝統音楽とも一線を画する八重山の音楽(音階)。
同化によって徐々に失われていくかもしれない古層の表現は、いくら良い意味での「チャンプルー」(混ぜこぜ)文化であっても、残したい、継承したい大切な表現法ではないかと強く思います。
音楽には音楽にあった風土、環境があり、そのことで地に足が付いた、真に生活に根ざす音楽が生まれ、だからこそ深く心と結び合うことができる。
そのような音楽を紡ぎたいです。
(この項を終わります。次回からは『「人」が音楽をつくる「音楽」が人をつくる』を再開します)





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