八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.77


【掲載:2016/05/08(日曜日)】

やいま千思万想(第77回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

私的に歌うことと共にうたう歌と

 歌は私的な感情から始まったのでしょう。恋をしたとか、感謝が溢れたり、切実にお祈りしている時とか。それらの歌は自分以外の他の人や神に向かってうたったと想像します。
相手がいなくて自分自身に向かってうたう歌もありますが、しかし本来的な意味での「歌」は、受けとめてくれる他の誰かの存在を求めての行為だと思うのですね。
誰かに認めて欲しい、感情を伝えたい、訴えたい、近づきたいという思いが強くなった時に、ふと出てきたものが始まりだと思うのです。

 「歌う」ことを二つに分けます。一つは自分自身のために、そしてもう一つは他の誰かを想って。 歌が自身の吐露というか〝つぶやき〟の範囲を出て、誰かを意識した「演奏」の範疇に入ると、意味合いは一挙に拡がります。
その時、演奏する者と聴く人たち、すなわち「演奏者」と「聴衆」が生まれるのです。
ある民俗学者が言うのですが、演奏(パフォーマンス)には二つあると。
参加型パフォーマンス、そしてプレゼンテーション型の演奏です。
ここでいうプレゼンテーションとは〔自分の主張したい内容を相手に伝えるための手段の一つ〕ということですが、一人の演奏でも複数の演奏でも、演奏する意味や目的は二つあるというのです。
初めは自分一人の歌だったのが次第に人が参加してくる歌になる。祭り歌や労働歌などがその例です。
この参加型パフォーマンスの特徴は、〝へた〟や〝じょうず〟はあまり問題にならないということ。
「皆の参加」が目的ですから、誰もが歌い、踊れるのが良くて、専門的な難しいリズムやメロディーは不向きです。沖縄音楽のライブ演奏のように聴衆も歌い、踊るという場面を想像してみてください。
 さて、参加型が進み、技量が上がってより高いパフォーマンスを求めるようになるとプレゼンテーション型の様相が濃くなります。
ここでは専門のアーティストがパフォーマンスを提供し、聴衆は受け手として見聞きして楽しむ、というスタイルになります。
コミュニケーションとしては一方通行になるのですが、参加型にはなかった別の感動が生まれ、それを味わおうと人は集います。
 多数での演奏の「合唱」、これは現在では多様なタイプがあり、集団規律を重んじ、集団帰属を意識した窮屈なものもあれば、参加型の自由闊達で軽く取り組めるものもあったりして、上の分類でははっきり分けられず少し交錯しています。
しかし、この共に歌う「合唱」、プレゼンテーション型の演奏では相当強力な形態に成り得ます。
演奏の仕方によっては人と人とをつなぐ最強の音楽形態となることは間違いありません。
それには勿論、音楽による純粋な喜び、人としての最良の心地良さを感じさせる演奏が必要なのですが。
今回のテーマ、書きながら歯がゆさが付きまとっています。この項の結末は次回ということにします。
(この項、ということでもう少し続きます)





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