八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.81


【掲載:2016/07/07(木曜日)】

やいま千思万想(第81回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

音楽で繋がる真のつながり

 音楽を再び考えます。音楽とは何か?
音楽を通して人間は何をしようとしているのか?
よく考えてみれば、「そう問うこと自体、滑稽なことだ」と思うこともあるのですが。
また考えてみたくなりました。
 これまでに多くの演奏家、作曲家と一緒に仕事をしてきています。
音楽愛好家も加えればどれほどの人たちと一緒に過ごしてきたことでしょう。
その現場で事が上手く運んでいるときは「音楽とは?」なんて考えもしていませんね。
音楽そのもので「事足れり」なのですから。
つまり、集まって一緒に過ごすのは音楽そのものが共通項だからですね。

 微妙な表現となってしまうのですが、時には人集めのために音楽が用いられることがあります。
イヴェントのために音楽が利用されることがあります。
音楽は人間の共通項ですから、それを用いれば容易(たやす)く人が集まってくるだろうとの目論見(もくろみ)です。
音楽それ自体が目的ではなく人集めの手段として用いられてしまうのです。
一旦それが行われると音楽そのものが変化し始めます。
音楽的には、と考えると変化することは喜ぶべきことなのですが、音楽の中身が人集めのために迎合したものになったならば音楽にとって少し不幸なことだと思う私です。

 たかが音楽、されど音楽です!このコラムでも書いてきました。
音楽は「人そのもの」です。
人の全てを表します。それはとても「人間的」なものなのですね。
ですから音楽をダシに使わない。他の目的を達成するための手段として音楽を使わない。
それがいつ頃からか私にとっての私自身の戒めの言葉と成りました。
音楽のために音楽する。音楽は音楽のためだけに使う。
禅問答のような文章になっているかもしれませんが、そんな風に今考えている私が居ます。
平和のために歌を歌うのではないと思うのですね。
歌うこと自体が既に平和そのものでなければならないのですね。

 先日の、「慰霊の日」に演奏をさせていただきました。
亡くなった方々の魂を思い、平和を念じ、祈りを持って歌いました。
その時多くの方々の「涙」を見ました。私も涙しました。
 涙を流す、それは一体なんでしょう?
もう一誌の新聞のコラムでも書いたのですが、人間が何故泣くのか、ということは現在の科学ではまだ説明できないそうです。
しかし確かなこととして、音楽を聴いて涙する、これは間違いなく演奏者と聴き手との心の共振に依ったということですね。
心と心が通ったわけです。
そこにこそ平和そのものがあったのではないか、そう思うのです。
そう信じるのです。
平和を祈るために人を集めて歌ったのではない、涙を流そうと歌ったのではない。
音楽そのものによって涙を流し、そのことで皆が人の存在を確かめ、人の集まりとなったのだと。
 音楽は音楽のためだけに使われるべきなのです。
音楽そのものが関心の的でなければなりません。
音楽で繋がる真のつながり。これこそが音楽家魂だと私は確信します。





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