八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.89


【掲載:2016/11/03(木曜日)】

やいま千思万想(第89回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

絶対音感と相対音感の効能

 音楽家の間で、あるいは音楽愛好家の中で一時熱く語られたテーマがありました。
音楽家になるためには、基本的な条件として「絶対音感」を持たならければならない、のだと。
絶対的音感とは、ある音を聴いてそれはピアノの何処の鍵盤の音だと解るような能力のことです。
任意の音の高さを他の音と比べなくとも知覚できる能力、という少し難しい定義になります。
楽譜を見て歌い始めても、楽器を奏し始めても、書かれた音を正しい高さから演奏できる、これは音楽する者にとってとても便利であることは間違いありません。
まして職業とするならば「絶対的条件」であると思いたいところですね。
そのためにある時期、我が国の「英才教育」として行われたことの中にこの「絶対音感」が取り入れられました。
 この音感は6歳までに訓練しないと身に付かないということで、こぞって世の親たちがその子どもを「音楽教室」に通わせたものです。
子どもたちに徹底的に音を刻み込ませていったのですね。
子どもたちが楽器の手助けもなく、楽譜を読んでいる姿を親たちが微笑みながら、少し自慢げに見ている姿を私もよく眺めたものです。

 今回、このテーマを取り上げたのは勿論音楽の本質的要素を解き明かしたいとの思いもあるのですが、人間の思考、価値観の現れにも関することだとの思いから書いてみたいと思いました。
「絶対音感」の話に戻りますが、この能力、本場である西欧ではあまり大切にされていないようです。
どちらかというと東洋的な能力として捉えられています。
日本がその代表かもしれません。西欧に近づけ、追い越せの標語に合わせてある教育機関が率先して行った経緯があります。
 民謡など歌い始める時など、西洋楽器と共に演奏するならば必要性もあり、また便利なことかもしれないのですが、伴奏無しで一人で歌い始める時など、歌い手の歌いやすい音から始めるのは自然です。
沖縄の三線などは歌い手の声の高さに合わせて調弦します。絶対的なピッチ(音高)は基本的にないと言ってよいですね。

 問題は音高を絶対的なものとして定めたことにありました。
地球上を見渡しても共通する絶対的音高など存在しません。
便宜的に「定めた」だけです。
それも喧々諤々(けんけんがくがく)議論が交わされ、いや口論といってよいほどの経緯を経て「一応」定められたのですね。
しかしながら現在、標準としては存在しているのですが実際は現場では微妙に異なっているというのが現状です。

 さて、それでは「絶対音感」ではなく、それに代わって何がよい能力なのか。それは「相対音感」ということになります。
ある音の高さから次なる音へと向かうその「幅」「距離・間隔」が大切ということ。
それは「音程」と呼ばれるのですが、それぞれの音が絶対的な音高をもっているのではなく、その音たちの距離感としての「関係」が大切だということです。
このテーマ、次回にも書きたいと思います。
その経緯、考え方や取り組み、その歴史が面白いのですね。





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