八重山毎日新聞社コラム

「やいま千思万想」No.127


【掲載:2018/06/28(木曜日)】

やいま千思万想(第127回)

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者 当間修一

「素朴」に生きたいと私は願っています

 最近、常に「素朴」に生きていきたいと思うようになりました。
いきなり唐突な問いかけですみません。
年を取ってくると様々なことを頭のなかで駆け巡らせてしまうものなのですが、普段ならば気にしなくて済ませてしまうものでも気になって仕方なくなったり、
いつもならば直ぐ判断できそうなことでも答えを出すのに時間がかかったり。
つまり瞬時に決定を下せなくなるってこと皆さんありません?
まぁ、若ければ若いなりに、そして年を重ねれば重ねるほどに、ということかもしれませんが。
その原因は過剰な情報量にある、そんな気がしています。
そしてその情報が整理されてなく、頭の中に散乱している状況だからだと思います。

 とにかく現代は複雑に情報が絡み合っている社会です。
私という「個人」の価値が社会全体の流れの中で確立されず埋没しがちとか、様々なしがらみの中で自身の考えを押し殺さなければならなくなったりとか、
とかく個人と社会との間で起こる軋轢で悩むことって年齢を重ねるごとに体に澱(おり)のように溜まっていく感覚が私にはあります。
最近ニュースなどを見ていると、至る所で「個人」的な意見をはっきり言おうものならとても大きなエネルギーとリスクを背負ってしまう、
そのような出来事が色々と世間を賑わせています。
まぁ、最初から個人というものを確立することなく、
あるいは確立するのを敢(あ)えてせず、
大きな世間の流れの中で身を任せてもいいやと決め込めば、そう大きく悩むこともなく人生を歩めるというもの。
しかし一旦、世間と違うことを言ったなら立場は逆転し、大きく窮地に立たされるやもしれません。
私も幾つかそんな場面に遭遇したことがありますが、結果的には私自身を失うこともなく、周りとも大きな軋轢なく過ごすことができたのではないかと振り返ります。
その時にいつも頭を過(よ)ぎるのが「素朴」という言葉でした。

 虚飾に満ちた思いでなく、自身の欲を入れることなく、そして身にまとった様々な〈しがらみ〉を取り払って単純思考でいく。
それが良いと知ったのですね。
純朴(じゅんぼく)、ぼくとつ、質朴(しつぼく)と言い換えることができる「素朴」という言葉。
そんな生き方がしたいです。 人間、真実を感じるのはこの「素朴な思い」であるという気がしてなりません。
もちろん、その素朴さというものが初めから濁(にご)っていてはいけませんし、悪いものから発しているのではダメですが、
真実と素朴な感覚とは密接に繋がっているのではないかと思うのです。
動物的勘であるとか、人類が長く蓄積してきた経験的な判断というものを発揮する、それが最初に感じる「素朴」な思いというものではないか、そう思います。
感覚を研ぎ澄ます。
それには複雑さに紛れない、人の思惑の中で右往左往しない、単純に「こちらが好き」「こちらの方が良い」でいいのではないか。
そろそろ石垣島に行きたくなってきました。これも私の素朴な「勘」です。





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