八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.12


【掲載:2013/09/01】

音楽旅歩き 第12回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

[しまくとぅば」、固有のニュアンスを持って朗々と]

 私たちが毎日読み書きしている漢字、意味は見ればある程度察することができます。
しかし、困ったことにその読みがよく解らないことが多いですね。
名前が特にそうです。
ふり仮名があれば助かると思うことがよくあります。
地名も同じ、間違って読めば間髪いれずに「それは・・・と読みます」とばかり注意を受けたりします。
読めないという教養のなさを批判されるようで子供の頃はだんだん恐ろしくなって、人前では漢字を読めないでいたこともありました。

 一方、仮名のように発音を示す音節文字は便利なのですが、今度はイメージを伴って意味がよく理解できる、とはならない。
日本語は話言葉で、話してこそ読み書きができるということでしょうか。
文字ってただ読んで書くだけでは用を成さないわけですね。
ニュアンスと言葉の前後関係がはっきりしてこそ、用を成すというわけです。

 大阪弁に「えらい」という言葉があります。
この言葉、ニュアンスによって意味が変わります。
例えば、『えらいやっちゃな』と言えば 『立派な人だな』と『とんでもないヤツだ!』の二つの相反する意味を持たせる事が可能なんですね。
 また 『えらかったやろ?』と言ってニュアンスを変えれば『辛かったでしょう?』の意味にもなります。
 感情を伴ったお喋りのニュアンスでこれだけの表現ができます。
そのような広がりが人々の文化の豊かさを示す生きた言葉となるわけです。

 時代に沿って変わっていくのが言葉でしょう。
変化があるからこそ言葉も生きている、ということになります。
 しかし、言葉は文化なのですね。
言葉は使う人々の精神をしっかり支え、構築します。言葉が失われれば、精神も失われる。
つまり脈々と繋いできた文化が失われてしまうのです。
私が石垣に来て耳をそばだてるのは島言葉のアクセント、ニュアンスを聞きたいがためです。
それは真の文化を知りたいからなのですね。
 「日本」の基層の一つ八重山。残念ながら八重山「しまくとぅば」は聞くことがまれになったかもしれません。
もし聞くことができたとしても普段聞き慣れている言葉とあまりの隔たりに戸惑ってしまうかもしれないのですが、その言葉の大切さは計りしれなく、心の拠り所となる貴重な文化として、自身のアイデンティティとして、確かなものとして現代に受け継がれるべきものなのですね。

 標準語に押しつぶされることなく、会話として生き生きと互いにお喋りする。固有のニュアンスを持って朗々と誇り高く語られ、放たれてこその言葉でなければならないと私は思うのです。
 八重山に来て一層言葉の尊さを学んだように思います。
八重山の「しまくとぅば」、沢山聞いてみたいです。





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