八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.31


【掲載:2014/05/25】

音楽旅歩き 第31回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

[音楽の歴史の中、私は今どの位置にいるか(6)]

 我が国の音楽は「学校音楽=クラシック」という図式。
長いヨーロッパ音楽史のうちのたった200年間という短い音楽史区分(古典派とロマン派)だけを学ぶことだった、ということが前回の内容。
ヨーロッパの国ならいざ知らず、我が国日本でこの区分だけを中心に学ぶことは少し、いや、随分と片寄ったものでは無いか、そのことに気付かされたのがドイツでの演奏旅行後でした。

 振り返ります。パイプオルガンを弾くことをきっかけに、私はヨーロッパ文化の核心の響きを体験することになりました。
またバッハの音楽を通じてヨーロッパ文化の思考様式を徹底的に追究することになりました。
その追究の過程でドイツ音楽の父「ハインリッヒ・シュッツ」とも出会い、音と言葉の関係を学ぶことになりました。
全てはヨーロッパ音楽の取得、体現。
私はヨーロッパ人になりたい、成ったと思っていたかもしれません。
私の創り出す響きや、表現法、様式観は最初のヨーロッパ、ドイツでの演奏会で大成功を収めたことでその正しさを証明したことになります。

 しかし、そこで思い知らされたことがあったのですね。
聴衆からの「日本の音楽を聴きたい!あなた方の文化の音楽も聴きたい!」というリクエスト。
その時、私は日本を余りにも知らなかったことに気付き、真の諸外国との交流は相互の文化への理解を深め合うことにあると、その当たり前の事に気付かされたのです。
ヨーロッパにおけるコンサートでのバッハやシュッツの演奏が日本人である私を通しての表現であったわけですから、既にそれは国際的な取り組みとしての《日本の演奏》だと胸を張って良いのかもしれません。
しかし日本の根っこの音楽を聴かせて欲しい、とのリクエストに即応えられない自分自身が音楽家としての器量に欠けると感じてしまったのですね。

 私の学びの時代(私の志向の結果なのですが)、それは日本での音楽教育においてほとんど伝統音楽を学ぶことも、聴く機会も極端に少ない状況でした。全てがクラシックでした。
日本社会における音楽環境、それは「学校教育はクラシック」、「生活の音楽は学校以外」でという組み分けとなって両者は大きく引き裂かれた格好だったように思います。
 西洋音楽には日本文化には無い、論理性や科学性に富んでいてそれらについて学ばなければならないことが(情報としてだけではなく、体現できなくてはなりません)まだまだ多くあることは確かです、それは確信です。
しかし狭量(きょうりょう)な価値観に陥らないためにも、そして真のグローバル(包括的、世界的)な人間形成としても、更に芸術の究極に至る道としても自身の足許の音楽文化を学ぶことが絶対に必要だということもまた確信です。
 自国の、そして生活する場所での伝統音楽を学び、楽しむ中で、国際的な音楽文化を形成することこそ今我々が取り組まなければならないことのように思われてなりません。
(脇道終わり。この項つづきます)





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