八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.34


【掲載:2014/07/06】

音楽旅歩き 第34回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

[音楽の歴史の中、私は今どの位置にいるか(9)]

 少数の一握りの人々から、民衆の多数へと広がりを見せた音楽。
そして声から器楽への変遷。
その器楽の音響は電気、電子音と変わって、更に人間の手が加わり、音響そのものの質が大きく変化しました。
いま私たちの周りで自然音を聞くのは希少価値となっています。
どこまでも心地よい響き作りが追求され、しかも大きなコンサート会場でも聴こえる大音響となる、それが当たり前のようになっている現代ではありますが、自然音の必要性がなくなるとは思えないでいる私です。
 心の余裕を見出すことのできる、己の心と深く対話できる、静かに空気の振動を五感を通じて感じることができる音とは、やはり生の自然音だと思うのです。

 一方、人が好む音楽そのものは太古から変わっているとは思えません。
使われている音階や和声(西洋音楽)は同じです。
そして歌もずっと変わらずに来たといっていいでしょう。
違ってきているのはその着飾り、つまりファッション化した音響づくりが変わっただけ。
そして複雑に絡み合うリズムが楽器音(音響)と共に大きく変化しただけです。
そのリズムさえ、基本的な部分では太古の時代に存在していたかもしれないのですから、やはり音楽変化は着飾り、装飾的変化、ファッション化の変遷と言って良いかと思います。
 心配なことがあります、それは現代を象徴する携帯型音楽プレーヤーによる難聴が増えていることです。
大きな音、それも長時間。
人によっては耳に直接押し込まれて再生されるオーディオの機器に繋がったイヤフォン。
これらが回復不可能だと言われている難聴を生み出しているという現象です。
これを回避するためにも時々は自然音による聴覚復帰を試みても良いかと思います。
 大きな声で喋る人々が多くなりました。
隣り合わせでの会話でも部屋中に鳴り響く声の持ち主が多くなっています。
これは耳が正常に働いてはいないのかもしれません。
 未来は「人間を取り戻す」音響、そしてそれに相応しい音楽で有って欲しいと願う私です。

 今の時代、様々な分野で大きな変化が生まれてきているように思えます。音楽でもしかり!しかし、それを受け入れる人間はそれに対応できるほど変化はしていないように思えるのです。
 電気・電子音による許容範囲を超えた音響、作られた音響から人に優しいアコースティックの生の音へと。それを提案したいと思います。
1万人のコンサートから十畳広間のコンサートへ。
その生の音が人間の機微を味わうためにも必要なことではないかと思う私です。
 ハインリッヒ・シュッツから始まった音楽の歴史をたどるこの項も終盤に近づいてきたようです。
音楽を過去に戻そうとすることではありません。
音楽を過去に縛りつけようというわけでもありません。
k 音楽は人間の本質な部分と直結しています。
人間というものの本質を知って、これまで培ってきた要素を活かしながら未来の音楽ってなんだろうと考えたい私です。
(この項続きます)





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