八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.42


【掲載:2014/10/26】

音楽旅歩き 第42回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

[苦悩を突き抜け歓喜へと至る音楽人生]

 「三つ子の魂百まで」とは、幼い頃に身についた性格や気性は歳をとっても変わらないという意味ですね。
音楽の才能も出来る限り早く磨いた方が良い、という意味でも用いることができます。
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの才能も早期教育を受けて花咲いたもの。
 その担い手は環境であった、と言えるでしょう。
父親だったり、兄弟、親戚、とにかく本人を取り囲む音楽環境が大天才を生んだということは間違いありません。
技術を徹底的に仕込まれたことは勿論のこと、職業として仕事を毎日繰り返すことの忍耐であるとか、様々な困難に出会った時の回避策など、職業人としての最良の習慣を身につける訓練を受けたのですね。
そのように基礎が固められた上での音楽家人生、音楽活動です。

 ベートーヴェンは一作ごとに自分を超えようとするかのように変革、改革を目指します。この姿勢も幼時に育まれた性格形成の一つでしょう。
 彼の交響曲一番は30歳の時に完成するのですが、これは室内楽での経験を積み重ねて後に書くといった用意周到な彼の性格によるものでもあります。
幼い頃から演奏家としても名を馳せていたベートーヴェン、しかし20歳代後半に難聴という音楽家としては致命的な病気が発覚、28歳の頃には最高度難聴者となるのですが、第一交響曲はその時期に作曲されたものなのですね。
幼い頃に受けた教育と演奏家としての経験がそれを可能としたわけですが、それ以後、演奏家(ピアニスト兼作曲家)から専業の作曲家へと転進し、代表作を続々と生み出すことになります。

 交響曲第1番ハ長調 (1800年)、第2番ニ長調(1803年)、第3番変ホ長調「英雄」(1805年)、第4番変ロ長調(1807年)、第5番ハ短調 (運命)(1808年)、第6番ヘ長調「田園」(1808年)5番より先に完成、第7番イ長調(1813年)、第8番ヘ長調(1814年)、第9番ニ短調(合唱付き)(1824年)と続き、彼は一作ごとに革新的な技法を編み出していきます。(詳細は専門的になるので省きますがその技法や楽曲構成は現在まで影響を与えています)

 特に交響曲第3番を作曲した後の10年を「傑作の森」と呼ばれる時期が訪れるのですが、これは病気故に自殺(『ハイリゲンシュタットの遺書』)をも考えた彼の一大転換期と重なります。
 「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という彼の楽曲構成はこのようにして生まれるのですね。
その彼の人生と社会の移り変わりも重なります。
それまで宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されていたものが、パトロンとの主従関係を崩し(しかし実際にはパトロンによって保護されるという面と、自由に仕事と報酬を決定していくという自立した職業意識を両有する現実)、音楽家として独立、自立に向かって大衆に向けた作品を発表、提供する音楽家がここに誕生することとなったのです。
(この項続きます)





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