八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.53


【掲載:2015/05/17(日)】

音楽旅歩き 第53回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

【ふと気がつけば口ずさむ そんな音楽を心に】

 ふと気がつけば歌を口ずさんでいる。別に歌おうとしたわけではないし、歌を思い出したのでもない。
気がつけば歌詞も適当だし、メロディーも知ったものでなく口ずさんでいる。
そういったことってありません? 私のように毎日音楽に接している者でもこのような経験が時折あります。
これまで演奏してきた曲ではなく、思いのままの、気まぐれな言葉で即興的に歌が出てきてしまうのです。
それらを記憶しているものもあれば、どうしても思い出せないものもあったりして悔(く)やむことしばしばです。
どれほどの数の言葉とメロディーをこれまでに歌ってきたことか、きっと想像を絶するほどに多くを口ずさんできたのではないかと思います。

 意識せず歌が出て来る時ってどのような状況でしょう。
心のなかの感情が今にも溢れんばかりになったときですね。
何かを成し遂げて喜びに満ちたたとき、楽しさがはち切れんばかりのとき、悲しさが重苦しく一杯になったとき、悩みに打ちひしがれようとするとき、見ることもできない何モノかに祈るとき、そのような状態ではないかと思います。
 人は心に、自身に向かって、何かから解き離れようとする衝動を持ちます。
解放されたい、思いを吐き出したいと無意識に思うのですね。
その衝動によって放たれた息が言葉と歌を誘って外へと吐かれる。
それは意図されたものでなく、止めることの出来ない人間の呼吸であって、衒(てら)いのない、真の感情の発露でもあります。
これは特別に選ばれた人間にしかできないというものではありません。
誰もができる、全ての人々が持つ能力であると思います。

 歌の本質はそのようなものであると思うのです。
しかし今の時代、真の感情の発露ではなく歌わされるよう意図的に仕向けられているのではないかと思うことがあります。
仕組まれ、お仕着せで歌わされるのですね。
自らが欲する、衝動の歌が少なくなっているような気がします。
心との繋がりが薄い歌、心が取り残されている歌なのではないか?
 確かに、たとえお仕着せの歌であったとしても心に新鮮な風を吹き込むということがあります。
それも確かです。歌うことで感情を作るのですね。
でも、私は音楽を生業(なりわい)としている者としていうのですが、やはり歌は真の心の発露として、ふと口ずさむもの、衝動の息のなかに必然的に現れてくるべきもの、その結果としての歌でなければならないと思うのです。
それでこそ歌に命が宿り、魂が入ります。
歌うことが人と人とを真に結び付ける。
感動を共有することができると確信するのです。

 基本的には歌は即興、その場で作って歌う、これが本質ですね。
心の中に起こった衝動を「声」となった「息」として体の外へと吐き出す。
そのような歌をうたいたいと思っています。
誰かに似せて歌うのではなく、模倣でない歌、自分自身の歌としてうたいたいし、聴きたいと思うのです。
心に沢山の衝動を沸き起こしませんか?





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