八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.64


【掲載:2015/11/15(日)】

音楽旅歩き 第64回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

【人の暮らしは響きの歴史(その10)】

 前回は「静けさ」について松尾芭蕉の俳句を例にして書きました。
「静寂」の中にこそ人間の感性の源(もと)があると言いたかったのですが、そもそもこのようなテーマを持ち出してくるのは私自身が騒音の中でもがき始めていたからではないかと思います。
 美しい音の追究だとはいえ、毎日毎日音が洪水のように溢れ、急速に流れ、身体を駆け抜けていくということは《ゆったりと音を楽しむ》《音を紡ぐ》こととは少し異なります。音を生業(なりわい)としている者の悲しさではあります。

 八重山に来て最初に私の耳に入ってくる音は波音でしょうか。空港から街への道すがら聴く森の鳥の鳴き声ににハッとさせられたりしますが、何と言っても島では波打ち際や岸壁に打ち砕かれる波の音に八重山を感じていた私です。
 山が怖いとか、海が怖いとかということをよく聞きます。人間が持つ心底の感覚がそう思わせるのだと思うのですが、それは生きてきた体験的なものなのか、それとも人としての古い記憶の現れなのか。
 私は山を怖いと思ったことがありません。人を襲う危険な動物がいると知りながらもモノノケの住む恐ろしい場所と感じたことがありません。そこには多くの苦悩を背負った霊が多数集まっているかもしれないのですが、それに恐れおののくといった思いに駆られることはなかったと思います。私にとって山は畏敬の領域、ですから八重山は私にとって畏怖すべき地なのです。
 むしろ、私は何故か波の音に言いしれぬ不安を感じていたようです。
海の底にこそ恐ろしいモノノケが住んでいる。蠢(うごめ)いていると。

 サンゴ礁の回りを泳ぐ色鮮やかな熱帯魚や一生懸命に生きているとしか言いようのないウミウシのような小さな生物のことではありません。もっと深い、深い海底の底のまた底に潜む何ものか、それが私を不安にさせるのです。人間を産みだした底であり、また人間を引き取り眠らせようとする底に、もっとも恐ろしい存在が潜んでいるという感覚が私にはあるのですね。

 静かに打ち寄せる波打ち際の波の音。砂浜での波音は私を優しく心地良く誘っているようでもあり、からかい揶揄(やゆ)されているようにも思えます。
また岩に激しく打ちつける波の音は私に強く何かを訴えかけています。海の底からの渾身の叫び声として、ゴウゴウとそしてドーンドーンと。
 荒ぶる海、凪(なぎ)の海、しかし底には何ものも揺るがすことのできない存在が静かに、大きく、深く息づきながら上を睨んでいる。

 山の響きは厳(おごそ)かに私の心の中に溶け込んでいきます。風も吹けば森や山は一層高らかに鳴き、それはもう、私は全身を包まれて宇宙と一体になれるでしょう。
 海の響きは人の涙の数だけある〈うめき〉。人間の存在そのものの響きが脈打っているように私には思われてなりません。だからこそ聴かなければならない響きなのですね。自分の響きを知るためにも、人の響きを知るためにも。
(この項続きます)





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