八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.66


【掲載:2015/12/13(日)】

音楽旅歩き 第66回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

【ベートーヴェンの「第九」を演奏】

 「人の暮らしは響きの歴史」の続きを書こうと思っていたのですが、今回はベートーヴェンの「第九」のことを少し書きます。
「第九」のことについてはこのコラムで昨年10月から11月にかけて四回にわたって書いています。
 要は、「第九」はそう簡単には演奏できない、ということ。
そして第四楽章(いわゆる合唱付きの楽章ですね)のみ演奏することは「第九」を演奏したことにはならない、ということを書きました。
 ベートーヴェンを識り、彼の人生の中でも特異な第九番目の交響曲の意義を表現するためにはそれなりに経験と知識、そして充分な準備を経なければならないと、私自身の戒めの意味も込めて書いたように思います。

 私の活動の中でもベートーヴェンのシンフォニー(交響曲)を演奏することはライフワークとなり、全曲演奏を終えてから現在は第二サイクルの半ばに入っています。
今月の末、そのサイクル中の「第九」を演奏するにあたって再度そのことの確認の意味も込めてここに記してみます。

 ベートーヴェンの生きた時代(1770年12月16日頃ドイツ〈神聖ローマ帝国〉のボン〜1827年3月26日ウィーン〈オーストリア帝国〉〔満56歳没〕)、それはイギリス産業革命・アメリカ独立戦争、そしてフランス革命が同時進行で起こっていた葛藤と戦いの時代です。(ちなみに、日本では江戸時代後期の元禄文化とそれに続く化政文化(かせいぶんか)。
 町人文化が大いに発展した時代)こういった歴史の流れを背景にして彼の音楽での革命的な生き方もまた生まれます。
音楽の中に、闘争、愛、希望、勝利・歓喜といった概念を持ち込もうとしたのでした。
この頃の音楽家は宮廷や有力貴族に仕え、公式・私的行事における機会音楽作曲家としての主従関係、いわゆるパトロンを得ての活動だったのですが、ベートーヴェンは初めて音楽家として独立、自由に仕事と報酬を決定していくという自立した職業意識を持った音楽家として活動を展開したのでした。
革新的な曲として生まれて来たそれぞれの交響曲、最初の交響曲一番は30歳の時に完成。
 20歳代後半に音楽家としては致命的な病気「難聴」となり、28歳の頃には最高度難聴者となるなかで生まれたものでした。
時代と抗(あらが)い、自身とも闘い抜いて到達した所にその後の第9番ニ短調(合唱付き)(1824年)は位置します。

 充分に考え抜かれ、細心の書法で音を書いたベートーヴェン。190年を経た今日でもその新鮮さ、音楽が持つメッセージの強さは変わりありません。
 不安・混沌の世界から理想郷を目指そうとする第一楽章、第二楽章の跳びはねるような運動性と弾む舞踏のリズムで闘いを描き、第三楽章では絶望感の中での瞑想、その夢のような平安の世界を描いて理想を目指します。
 そしていよいよ第四楽章、今日「世界の自由と平和」の象徴となった「歓喜に寄(よ)す」が歌われる。
この力強さに満ちた、祈りとも確信とも受け取れる名曲を私は演奏します。





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