八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.83


【掲載:2016/09/11(日)】

音楽旅歩き 第83回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

【沖縄音楽の演奏にあたって考える】

 多くの演奏会、ステージを重ねている私。そのレパートリーは西洋音楽、それもクラシックを中心にするものです。
このコラムでも書いてきましたが、シュッツ、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーといったドイツの作曲家の作品を柱として、またその他のヨーロッパ諸国、とりわけ歴史上重要なイタリアの作曲家の作品もプログラムに加えています。
その私が1990年を境に我が国の作品をより多く演奏するようになりました。
ヨーロッパでの演奏会をきっかけにいわゆる「現代音楽」と呼ばれるジャンルの作品をレパートリーに取り入れていくことにしたのです。
 私の活動の中心の一つとなる「現代音楽シリーズ」の始まりです。
そのシリーズは一般的には理解しがたい作品とされる先進的な音楽を「音楽界の最前線」という視野で捉え、そしてそれらを「難解な作品」としてではなく「音楽的面白さ」として聴衆に紹介する演奏会。
そしてそのプログラムの幅は徐々に広がってきました。

 その過程で「民族音楽」をとらえます。
世界には多くの民族音楽があります。民族音楽の重要性を意識したのはこの頃からでしょうか。
国を見ていたものが、多種多様な集団の文化を見るようになりました。
国と民族が一致するとは限りません。同じ国に住んでいるとは限らないからです。
民族とは文化の伝統を共有した人々のこと。たとえ住む地域は異なっても同族意識を持った人々のことでもあります。中でも言語の共有という条件は大切です。

 最近「沖縄音楽」を取り上げることが多いです。恒例となった9月の「邦人曲シリーズ」でも沖縄音楽を編曲した作品が入っています。
いつも思うことなのですが、そして充分に考慮しなければならないことなのですが、沖縄音楽としてのメロディーを取り上げる場合、どのようにハーモナイズさせる(メロディーに和音を割り当てる)かが問題となります。
以前にも書きましたが、本来は手を加えず、つまりハーモナイズさせずに歌う、あるいは奏するというのを私は推すのですが、つい編曲するとなると現代の音響を取り入れてみたくなるものです。
その結果、本来ある伝統的なものが薄れて「現代」が強調されてしまうことが起こります。
一例をあげれば沖縄のメロディーにジャズのリズムとハーモニーを付ける。
これは興味ある音楽となるのですが、沖縄のメロディーにとっては一考を要します。
それは歌う「心」、文化としての「心」が変容してしまうことです。

 今回編曲されている沖縄の歌は〈あかなー、はららるでぃ、だんじゅかりゆし、久高、赤田首里殿内、唐船どーい〉の6曲。
これらは与那国島や本島の歌なのですが、それをピアニスト二人、そして三線と太鼓を入れて演奏しようとするもの。
この編曲、ハーモニー付けも沖縄音楽に相応しいものとして気に入りました。
リズムも良し、乱舞のカチャーシーも飛び入りです。
少し珍しいものとしての演目でなく、沖縄そのものを感じる演奏になればとの思いです。





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