八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.110


【掲載:2017/12/24(日)】

音楽旅歩き 第110回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

外国語を話す、翻訳するのは楽しい?

 仕事柄、外国語を訳すことが多いです。
演奏する曲のテキストがラテン語であったり、ドイツ語であったり、そしてイタリア語も頻繁に歌いますから訳すことが必須となっています。
それらの外国語との仲介役を務めるのが今日では英語ですから、当然その訳もしなければなりません。
私はネイティブ‐スピーカーのようには喋れませんし、話すのは苦手なのですが(話すという行為に慎重になりすぎるきらいがあります)、訳すこと(翻訳)は若い時から必要不可欠なものとしてやってきました。
特に私が演奏する時は私自身の感情移入した演奏をと望むために人の訳したものを使うのではなく私自身の翻訳に基づいて演奏することを信条とします。
ですから訳すことはこれまでにも沢山行ってきました。「自分の言葉として演奏したい」ということですね。

 しかし、翻訳は難しいです。
その微妙な意思、感情、性格などを考慮しながら「生きた言葉」として、解りやすく、また正確に意味内容を訳していくのはそう容易くはありません。
やはり、多くの専門的知識と世界観が必要となります。
その翻訳の世界、最近は「翻訳アプリ」なるものもあって便利になりました。
翻訳性能も以前に比べ精度が上がり、多くの人がスマートフォンを使って外国人と遣り取りをするというケースも増えたと聞きます。
私も時間節約のために、辞書を使う煩わしさからインターネットに繋がるそれらのアプリを使うこともたまにはあります。
しかし、公に発表しなければならない場合には、最終的には重い辞書を開き、一字一句、フレーズなどを確認して意味を決定するということになります。
その手間は怠らないよう務めます。

 言葉は生き物です。10年も経てば微妙に意味内容が異なることも少なくありません。
いや、まったく「死語」になっていたり、意味が逆転している場合だってあります。
私などは今日使われている言葉ではなく、古い時代の古い言葉を扱うことが多いですから、その変遷まで調べなければならないことになります。
その過程はスリリングでもあり、またとても興味深く、楽しくもあるのですが、さすがに大曲で長いテキストや専門分野の言葉を読む、訳すときは正直、辛いと思うことがあります。
会話と言えば、石垣島では外国人の観光客も増えて外国語を話す機会も多くなったのではないでしょうか。
まぁ、必要最小限の日常会話はあった方が良いことは自明の理です。
島をアピールするためにも、理解してもらうためにも、また交流を深めるためにも言葉による「コミュニケーション」は必要でしょう。
しかし、そうではあっても言葉に振り回されるのは良くないですね。
「郷に入っては郷に従う」と言われるように、島に来られた観光客には思いっきり「やいま文化」に触れて頂くために日本語、そして片言でかまいませんから「やいま語」を話してもらったらどうでしょう。
言葉は「生活」。伝えるべきは「人」そのものなのですから。





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