八重山日報コラム

「音楽旅歩き」No.116


【掲載:2018/04/16(月)】

音楽旅歩き 第116回

「大阪コレギウム・ムジクム」主宰 指揮者  当間修一

言葉は真実の心を語るものでありたい

 最近、俳句や短歌を詠みたくなりました。
幼い頃から特に親しんできたというわけではないのですが、あの短いフレーズに込められた「心の機微」を心地良く感じていたようです。
五七五や五七五七七のリズムは小気味よく、また鐘の響きの余韻のように心に残るものでした。
でも、詠みたくなったとはいえあまり実際には作ったことはありません。
なのに最近いやに思いが強くなっています。
これって何だろうと自分自身も不思議です。
このコラムでは「言葉」の重要性をことある毎に書いてきています。
暮らしの言葉は「人間」としての根源です。文化の基本です。
コミュニケーションとしてだけではなく、もっと大きな視野で人類を眺めてみれば、
「言葉」が大切であることは説明する必要のないほどに自明のことなのですが、未来には「暮らしの言葉」は今とはまったく異なったものになっているかもしれません。
「生活の言葉」が変化していく。その過程のなかに現代があり、必要に迫られて他の土地、国の言葉を併せ用いているのかもしれません。

 私は大阪弁で普通喋ります。
その時には私自身が全面に現れているはずです。
人前に立てば少し意識して標準語で喋ろうとします。
その時にはちょっと気取った私でない部分を見せているのかもしれません。
標準語は国の中での意思疎通を円滑に図るという意味では良いのですが、文化的な意味合いで観てみれば深みはないでしょうね。
私は旅行に行けばできる限りその地方の言葉を知って覚えようと心がけます。が、日常使わない言葉ですから直ぐ忘れることとなり(八重山言葉がそれに当たりますね)、
いつも口惜しさを覚えます。

 八重山言葉の尊さ、その大切さに関しては今更その重要性を語る必要がありませんね。とても大切です。
日本全体にとってもです。
しかし現実的には、利便性の高い標準語が使われ、それによる統一化が進み、「人」としての大切な足跡、遺産としての文化的特徴や個性などが忘れ去られようとしてるのではないか。
笑い話のネタのようではありますが、ある時偶然に「ネイティヴ」な方言どうしが会うことになって話をしたならば、同じ日本人でありながらまったく会話が通じない、
お互いに外国語を喋り、聞いての頓珍漢(とんちんかん)な受け答えになるという場面を想像したりします。
でもこれって良い風景ですよね。私はそう思います。

 最近、言葉の軽さを感じます。
世相も政治もそう、また世界で取り沙汰されているコメントや会話はもはや信用性を失っているように思うのですがいかがでしょう。
表現は優しそうに見えて、内実は残酷であったりする、かもしれません。
言葉は荒くても、心の底の優しさを滲(にじ)ませている表現であったりすることも少なくありません。
言葉としての力は弱くなっていくのでしょうか?
切り詰められた心模様、奥深さが広がる俳句や短歌を今一度詠んでみようと真剣に考えています。
言葉(言霊)とリズムの力を信じて。





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