'97/3/13

暗譜の功罪


昨日の練習は全曲を通しました。
今まで一曲一曲というわけでもないんですが、各曲を結構時間をかけながら練習してきました。時間があれば、毎回各曲を練習した後に全曲をまとめて歌うというのがいいんですが、今回は幾つかの演奏会の曲がダブっていたこともあってその練習はできなかったんです。
昨日は久しぶりに「無限曠野」に専念できるとあってちょっと気持ち的には余裕の持てた練習でした。
で、暗譜の練習に入ったんです。

シュッツ合唱団は「楽譜を持って演奏」することになっています。
「合唱」は絶対暗譜でなければならない、と主張する方には最初よく批判されたものです。
大学の合唱団や一年に一回程度の合唱団では暗譜は当たり前のようですし、事実見栄えも、そして演奏に集中できることもあっていいことは解るんですが、その為に費やす時間と過度の緊張は演奏中には少ないほうがやっぱりいいと思うんですよ。
暗譜をしなければいけないという緊張感はなかなかスリリングで結構危険性が高いんですね。
嫌な言葉ですが「魔がさす」ってことありますよね。本番中は何が起こるかわからないんですから。
合唱のように沢山で歌っている場合は、仮に一人や二人が同時に間違ったとしても全体が止まってしまうということは余り考えられないですよね。しかし、ソロの場合は・・・・・・考えただけでも恐ろしくなります。私が昔これにあったことがあるんですね。もう思い出したくもないです。

今度の「無限曠野」は暗譜と決めました。
シュッツ合唱団は「楽譜を持って演奏」することになっています、と先に書きましたがこれには例外がありました。それが柴田南雄の作品なんです。
シアターピースはやっぱり暗譜をしなければいけませんね。楽譜を持って客席を歩くわけにはいきませんものね。これは合唱団にとっては良かったですね。柴田作品に会わなければ演奏会に暗譜で乗っている合唱団を見ていただくことができなかったのですから。
我が合唱団では楽譜を持っているとはいえ、「楽譜はお守りだ」、が徹底されています。楽譜はお守りであって見て歌うものではない!との意味です。つまり暗譜できてる程には練習しよう、というわけです。

ということで昨日は暗譜で練習。
これはいいですよ。皆の顔が上がって私を見てくれる人が断然多くなりますね。
目と目が合う人の数が多くなり、歌っている人とのコミュニケーションがいつも以上に取れてバチバチっと感じあえるんですね。
何よりも棒に対する反応はとても機敏なものになりますね。一応団員にはその辺の訓練は他よりも行き届いているとは思うのですが、更に反応が早くなるんです。これは指揮者冥利に尽きるというものです。
しかし、昨日の段階ではまだ団員の顔はこわばっているみたい。
目の焦点が定まらないですね。きっと思い出してるんでしょう。目はこちらを向いてるんですがさまよってます。顔には余裕のない表情が走っています。
しかし、なんですね、練習の後半に入った時にはその目や表情がなかなかホンモノに近くなったんです。これってきっと今度の「無限曠野」が団員に理解され始め、好きになり始めたんじゃないかと思うんです。
追い込みです。
今週の土日は合宿です。
この報告は合宿所から伝えることにしましょう。
ですので、この「日記」は明日はお休み。
私はこの間、「武満 徹」のCDに掲載するライナーノートをまとめる仕事をします。急いで書かなければ。このCD早く聴いていただきたいんですもの。

'97/3/13「暗譜の功罪」終わり


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