No.129 '97/11/26

演奏会のエンディング


東京公演での感想を頂いています。
その中で、「無限曠野」の演奏が終わった後の私の笑顔や合唱団員に対する握手に違和感を持ったとする意見がありました。
また、アンコールの曲が余韻とあわなかった、というご意見もありました。

「う〜ん」
難しいですね。
「無限曠野」の終わりでは(正確に言うならば演奏半ばから)私は泣いていました。
団員も曲が進むほどに感情が高まり、「大白道」では何人も泣いていました。
その姿を見て私は作品の世界にとどまらず、歌い手と私と聴いていただいた聴衆の皆さんとの間で、共有している「演奏会」そのものへの「時間的空間」に感謝して、又涙してしまいました。
アンコールの曲は柴田先生の若い頃の作品、その演奏を通して柴田先生の歴史、そして「大白道」での重苦しい空気からの転換を意図して選んだんです。

「無限曠野」に聴き入って頂いたお客様にはこのギャップはやはりあったんですね。
理解できます。
エンディングとしてはフェード・アウト(光をだんだん暗くしていって暗転にする手法)して終わる(アンコール無し)ということが相応しいかったですね。
また、ステージ上の私は「大白道」の雰囲気にあった表情、そしてその範囲での団員たちへのねぎらいを取れば良かったということなんだと思います。

「演奏会」とは難しい。
ほんと難しいですね。
様々な制約(プログラミング、時間等)、そして「演奏会」そのものについての考え方、捉え方があります。

最近、エンディングで迷うことが多いです。

告白するとですね。
私、演奏会が終わった後とても「はずかしい」のです。
これって、どういうことでしょうね。
「恥じている」わけではありませんよ。また自信が無いわけでもありませんね。
でもとにかく恥ずかしく、聴いていただきたい事はし終わったし、団員たちの健闘は演奏を通して示されたはずだし、またその賞賛もそれに相応しい形で受けているものと思っていますので、とにかく早くステージ上から去ってしまいたいんです。
本当のことを言えば、終演後にはステージに上ること無しに終わりたい、これが偽らざる私の本音です。
私の役目は一曲一曲を演奏する、ということで終わっていると思うんですね。

しかし一方では舞台に上がるものとして、お客様への「サービス」が必要ではないかとも思っています。というか、それを「演奏会」という場では求められているんですね。
で、その「サービス」、言い換えればニーズに応えるということだと思うのですが、これが難しいのです。
ある人にとっては納得して頂いても、別のある人にとっては理解できなかったり、余計なこととなってしまうんですね。

私、エンディングに関してはまだ少し「ぎこちなさ」を皆さんに披露してしまうことになるかもしれません。
もちろん一回一回最前を尽くし、「ぎこちなさ」が無くなるよう考えますね。
でも、この「はずかしさ」から脱皮するには時間がかかってしまう気がするんです。
「エンターテイナー」というのではなく、自然にそれぞれの空気に馴染めるような私になれればいいな、と今考えています。

'97/11/26「演奏会のエンディング」終わり