No.142 '98/1/17

今日を想う


頭にこびりついて離れない実験の話しを思い出します。
正確ではないかかもしれませんが、こんな話しです。
隣の部屋に電気椅子に縛られた人(囚人だっかもしれませんし、虐待を受けた人だったかもしれません)がいます。
こちらの部屋には、その電気椅子に電気を流すスイッチがあります。
この時、縛られた人を見ながらスイッチを入れるのと、見ないで入れるのとどう違うかを実験したというんです。(声だけは聞こえたと思います)
その結果、見ないでスイッチを入れたほうが見て入れた人より残酷だったんです。

いきなりの話し、とんでもない例で恐縮です。
でも私はことあるごとにこれを思い出すんです。
脚色してしまっているかもしれないのですが、そういう状況で頭に入っているんです。
「人間は残酷なものだ。」
「見たのと見ないのとでは、状況が変わる。」
「人の痛みが解らない。」
こんな風に理解しているんです。

常に相手の気持ちになって考えてみたいと思っています。
相手の立場に立って判断したいと思っています。
その為にもできるだけ相手を直に見たいと思うんです。
見ないことは「判断できない」ことにより近いんだと思うんですね。

今日は1月17日
阪神大震災は3年前でした。
被災地へ行きました。しかし、震災から少し日が経っていました。
その悲惨な光景は今でも頭から離れません。
何も手伝えませんでした。
音楽家として被災地で演奏をした仲間も沢山いました。
被災した仲間もいました。
でも本当の苦しみは受けた人しか解らないんですね。
私は結局、被災者の方々に対して直接お手伝いをすることができなかったんです。

新聞の報道では、現在でも24337世帯が不自由な生活を強いられている、と書かれています。
いろいろな意見を聞きます。
「行政がもっと積極的に支援すべきだ」、いや「被災者が他力本願すぎる。もっと自分達で切り開いていくべきだ」というようなことを。
これも現状を見ないで意見をいうのは少し考えものです。
しかし、何も考えず、何も意見を言わず、無関心な者に対しては少し怒りを覚えます。
私たちの生活するスタンス、そして想像力と真の連帯を問われるのだと思うんです。

阪神大震災の犠牲者 は6430人と発表されています。
一人一人の人生・・・・・・今日は犠牲者となられた方々のことを、貧しいけれど精一杯に想いたいと思っています。
経験しなかった者ができること、それは想像し、自分の奥底からの要求に答えて行動することでしょう。
少なくても<人の痛み>だけは解りたいんです。
私は強く思うんです。

'98/1/17「今日を想う」 終わり