No.293 '00/5/22

カノン


今日、野田秀樹の「カノン」を観てきました。
蜷川の「夏の夜の夢」と併せて、ここのところ演劇付いています。
「演劇」の空間が益々好きになっていってます。
それは、舞台で繰り広げられる世界も素敵なのですが、お客さんの雰囲気も私にとって居心地がいいんです。

どこか、「演劇」と「音楽」とに共通点を、あるいは非常に似通ったものを私は感じているのですね。
特に、野田の場合は演劇作りの中に「音楽」を感じます。舞台の運び、音響や照明もリズムを意識したものを感じますし、彼が作り出す「台詞」こそ、もうそれは立派な驚くべきビートの利いた「現代音楽」です。
「言葉遊び」の面白さもこれほどに堪能させてくれる作家はいないでしょう。
今回の「カノン」は台本としての完成度も高く、真っ直ぐに、余計なものを削ぎ落としての密度の高い内容でした。
しかし、それを認めた(堪能させてもらいました。感動しました)上での話なのですが、私には幕開きと同時に「衝撃」も無く、次の所作、展開が予想でき、作品の完成度の高さの中に引き込まれはするのですが、「衝撃度」は低かったですね。

その原因は、私の「創り手」としての視点がそうさせているに違いありません。
どうしても、演じられている世界ににドップリと同化できず、対象化してしまうところがあります。
野田の場合、ひょっとすると私が作り出したいとする「音楽舞台」と共通するところがあり、その接点の重なり合うところの大きさがその原因を作り出しているような気がします。

しかし、蜷川は違うんですね。「衝撃度」はこちらの方が私にとっては大きいのです。
演劇としての「深さ」を感じます。そして、その演出は「刺激的」です。私の創造心を刺激します。正に人の心の中に潜むあらゆるものを掘り起こそうとするかのような演出なのです。
この違いは、蜷川は「演出家」であり、野田は台本を書き、演出家もするが、役者としての存在が大きいというところから来ているのかもしれません。
徹頭徹尾、蜷川は「演出家」。その張りつめた舞台作りが私にとってはたまらない魅力、と映っているのでしょうね。

私の毎日、刺激的!ですね。
更新はできていないのですが、「散歩」は続いています。いいところが見つかって書きたいことがあるのですが、まだ書けてませんね。
デジカメを持ち、メモ帳を引っさげて歩いているのですが、今更ながらこんな充実した時間もあるもんだと、感動することしきりです。
「京都モンテヴェルディ合唱団」の演奏会も終わり、今日から一段と「現代音楽シリーズ」の世界へと歩みが深まっていきます。

追伸かな・・・・・・・
「カノン」で演じた鈴木京香は「華」でしたね。
役者には「華」が必要です。彼女そんなに大きいとも思えないのですが、舞台ではとても大きく感じました。
目が輝き、手や足も美しかったなぁ。女の色香の見事な表現です。
男優も「華」が必要ですね。太郎役の唐沢寿明も良かったです。舞台の「華」となる。これ「音楽家」にも必要です。(私などほど遠いのですが(ガッカリ)、でも、頑張ります(自分に←どうするんでしょう))

No.293 '00/5/22「カノン」終わり