No.320 '00/8/31

25年を振り返ります(5)「新生合唱団(軽口編)」


教会の百周年記念事業のために集まってきてくれた合唱団団員はほんと歌好きでしたね。
でも、良い意味でも良くない意味?でも「個性派」でした。
まあ、本人たちは「我こそが普通だ」と思われていたでしょうが、歌に真面目な分だけちょっと一般からはずれていたんだと思いますね。
彼らの名誉のために書いておかなければなりませんが、そのずれているところがあるために、そして一途で真剣に取り組む思いが強いところがある故に物事の発展に貢献します。(この書き方、フォローになっていればいいのですが)

信じられないでしょうが、演奏会の直前に譜面を渡してすぐ本番です。(むちゃくちゃです)
当然、歌えないところもありますし、曲の内容を把握しての演奏なんて望めたものではありませんよね。(無謀というものです)
それを有無を言わせずやってしまう、なんと強引な指揮者か。
何回か、本番でソロが出ず、曲も止まってしまったこともありました。でも知らん顔して振り続けてます。(実は心臓が止まりそうなんですよ)
終わっても怒りません。口癖は「この経験が上手くさせるんです。そのうち通して歌えるようになりますよ」ですって。よく続けられたものです。

鍛えられた?合唱は1977年11月、「大阪コレギウム・ムジクム合唱団」として結成し直され、その後、翌年(1978年4月28日)から開かれた月例演奏会(「アンサンブル・シュッツを囲んで」第一回月例演奏会)にも時折出演。でもこの頃も演奏はなかなか恐かったことが多かったです。

こういった状況の中で、倉橋史子が入団して来るんですね。(可哀想ですね(笑))
1982年3月、第二回定期が新しくできた「宝塚ベガ・ホール」開かれます。一パート4〜5人。「一人一人がソリスト。しかも見事なハーモニー」というお客さんの意見があったそうです。(確かにその方向性はあったものの、内実はきびしかったです。ハイ)
この時からでしたね。チェロの大木さんが参加するようになったのは。
この年の11月、第三回定期が神戸のユニオン教会で開かれています。(すでに年内に2回定期が開かれています。これも恐ろしい勢いです)
全団員数が17名だったそうです。

さて、このあたりから合唱団の変貌が始まるんですね。
倉橋さんのことを書かなければいけませんね。
入団した頃の彼女は<目立たない><大人しい>一団員でした。真面目な普通のお嬢さんでしたよ。(過去形だから今はそうではないとは思わないで下さいね)
誘っても、練習後の飲み屋さんには絶対来なかったですね。(これは今では想像ができないことですが(笑))
背も低く(ということは何も悪くはないのですが、舞台映えを考えるとマイナス面なんですね)、声に関してもそんなに恵まれた喉頭の持ち主というわけでもありません。
しかしなんです。これは強調しても、し過ぎるということにはならないと思うのですが、彼女の音に対する集中度、一声一声にかける真摯な取り組みは希有な才能です。私は彼女ほどのものを他に聴いたことがありません。(ここはちょっと真面目です)
突き抜けるような声質も手伝って、彼女の歌は人の心に深く突き刺さってきます。「入魂の一声」とはこういう声質、歌をいうのだと思います。
それからもう一つあるんです。彼女の才能が。
それはハモれるということなんです。
ソプラノでありながら、アルトにも合わせていくんですね。テナーにも、そして当然ながらバスにも。(これ当たり前のことなのですが、なかなかできる人がいません)
もし、彼女が下に降りる(メゾのパートを歌う)ことになってもしっかりそれはハモります。すなわち<音楽>をしてくれるんですよ。
この人の存在が、私を本格的に新しい合唱団を作ってみようかと思わせてくれる推進役となったのです。

1983年3月、「大阪コレギウム・ムジクム合唱団」から「「大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団」へと改名します。
変貌の勢いは更に続きます。
第4回定期(ヘンデルの「聖セシリアの日のための頌歌」を含むプログラム)を境に、今日の合唱団を築き上げた中心メンバーたちがこぞって入団して来ます。(ほんとゾロゾロといった感じでした)
倉橋さんと共に私の合唱団作りを押し進める決心を促すことになった五十嵐玉美を筆頭に、大阪教育大学の学生たちが大挙して入団してきたのです。(ホント、大挙でした)
そこには特設科のテナー若山良雄、合唱にのめり込みすぎて卒業を遅らせたという(彼の頭の良さを考えると勉強で落ちたとは考えられません(笑))今や合唱団の大黒柱となっているバスの長井洋一、そして現在会計を兼務してくれているアルト(入団当時はソプラノでした)の山本祐子たちがいました。
現在残念ながら合唱団にはいないのですが、この頃、才能豊かな(しかし若かった)人たちが相次いで入団をしています。
新しい合唱団作りは刺激的で、希望に満ちたものになっていました。
まだ、日本の何処にも私がイメージしているような合唱団を見い出すことができませんでした。
「ひとつトコトンやってみるか!」どんどん深みにはまっていく私だったのです。

No.320 '00/8/31「25年を振り返ります(5)「新生合唱団(軽口編)」」終わり