No.331 '00/10/

記念演奏会が終わりました


今朝、目覚めたのは11時を過ぎていました。
打ち上げを終えてお店を出たのは11時。
そこから<二次会へ>と話も出ていたのですが、真っ直ぐ帰って来ることにしました。
今日は金曜日、仕事をもっている団員には過酷ですよね。

記念演奏会の感想を書いておきます。
まずは沢山のご来場ありがとうございました。
入りが心配だと書いていたのですが、当日は予想を上回る沢山のお客さんにお出で頂きました。終わってからも関係者の方々から「もっと見て、聴いて欲しかった」との言葉も頂き、嬉しかったです。

私、思うんですね。
演奏会って<お勉強>して聴くものでは無いのではないかと。
クラシックの音楽というのは、体感、フィーリングだけでなく、歴史、様式、文化、専門的知識や思想といった知的活動の楽しさも併せ持っています。
しかし、バランスの良さから言えば、知識先行型ではライブとしての面白さ、そして創作活動としての建設的な志向に曇りを生じさせます。
「その場で感じる」、これがライブとして演奏会の<醍醐味>ではないか、そう思うのです。

私の目標は、解説文や歌詞掲載のない演奏会です。
今回のように、柴田作品では難解な詩や、文学、哲学といった高度な知識が必要です。(少なくても演奏者には必須です)
しかし、演奏会そのものが<勉強会的雰囲気>を持つものであったなら演奏会そのものが先行き不安です。
<勉強>をしに演奏会に来る人がそう多くいるとは思われません。
合唱の演奏会の場合、歌詞が聞き取れ、楽しさ、面白さの意図が伝わる。演奏を聴きながら解説文や歌詞を読むことなしに、耳と目がフルに演奏に向けられる。これが私の目標です。
しかしながらその趣旨であったとしても、今回の演奏会、後でお配りした二部の曲目の中に歌詞も含むべきでした。
休憩時間にそれらを見ることができ、それによって曲の内容の確認、そして構成した私の意図に対する批判参考資料としても役立てて頂けたのではないか、そう反省した次第です。そうした配慮が行き届きませんでした。

頂いた感想の中に、演奏の仕上がりに落差があり、不適切ではなかったか?というものもありました。(これは各団での落差ということでしょう)
これに関しては、そういったことも演奏意図に含まれていた、ということでご理解ください。
「人間の営み」としての活動を、ありのままの姿で表現したい、これが今回の演奏会のコンセンサスであり、私の意図でした。

大事なことなのですが、柴田先生のこれらの作品は「専門的合唱団」(演奏水準が安定して高いという意味で使わせていただきます)のために書かれたものではありません。先生はもっと多くの合唱愛好家の方々に唱って欲しいとのお考えでした。
多くのシアターピースの代表的作品は大学生やアマチュア合唱団のために書かれています。
先生のそうした意図は明らかです。それは<より新しい体験>をより多くの人に、というものでした。

記念演奏会を演奏し終えたことに胸を撫で下ろしています。
団員も、費やした練習の時間、そしてその密度も高かっただけにその安堵感も大きかったのではないかと想像します。
休む間もなくいくつかの演奏会が控えています。
「人間について」は東京公演でも演奏します。

ご来場ありがとうございました。
また、多くのご意見、ありがとうございました。

No.331 '00/10/「記念演奏会が終わりました」終わり