No.394 '01/10/31

鈴木憲夫作品研究会


昨日、東京近郊で行われた「鈴木憲夫作品研究会」という集まりに行ってきました。
これは鈴木憲夫さんが書いた女声合唱曲ばかり集めての研究会で、主催が「TCF女声合唱団」、その他いくつかの合唱団が女声合唱曲のほぼ全作品を演奏するというもの。
会を開催され、束ねていらっしゃった辻 正行氏には頭が下がります。

第12回女声合唱による公開レッスン
作曲者自身の指揮・解説による徹底研究
鈴木憲夫作品研究会
と題されたこの集まり、敬愛する鈴木さんの作品を近年集中的に取り上げ、またその「資料集」に原稿を寄稿したということもあって訪れてみようと思いました。

朝10時から始まったこの会、3時まで鈴木氏自身が解説しながら曲を指揮されたんですね。
用いられた曲は、「永訣の朝」、「みすゞこのみち」より、「地球に寄り添って」「鬼は内」(新作)です。
作品にかけれらた情熱がそのまま指揮に表れているといった風で引き込まれていくような振りでした。
解説の細部を私がここで報告することはできませんが、その内容は説得性のあるものであり、自作の表現法にも大きくかかわっている各部分をその端的な振りで示されていました。
特に「詩」に関する鈴木氏の捉え方、<視点>については特に熱心に語っていらっしゃっていたように思います。(その内容は私も同感するところ大でしたね)
ゲストで片岡 輝さんもいらっしゃっていて、ステージに上がられて意見や感想を述べられていたのですが、そのやりとりが、そして片岡氏の自作の詩に関するコメントがその関連もあって私にとっては面白かったですし、考えさせられました。

要点だけを言えば、作曲する際には一字一句「詩」を変更してもらっては困ると拒む詩人も居る中、変更も可ですよ、ということだったのですが、その基本理念というものに共感を覚えたのですね。
それは「詩」が詩人を離れ、作曲家に手渡った時点からその作品は育っていくもの、育てられていくものだと氏が考えられている、ということなんですね。
この意味は大きいと私は思うのです。
変更する者にとっての責任、そして詩人の確固たる信念とその許容となる懐の深さ。
拡大解釈ということにもなるかもしれないのですが、
氏の考えに寄れば、詩人から離れた詩、作曲家から離れた曲、演奏家から離れてしまった演奏(演奏会での演奏もそうですが、レコードとして残された演奏もですね)は一人歩きするものであり、育っていくもの、育てられていくべき既に独立したものなのですね。懐の深さを問われるわけです。

創作とは何か?
詩人として、作曲家として、演奏家として、(付け加えて)聴衆として、そのそれぞれの立場をどこに置き、関係づけるのか?

それぞれが作品とどう向き合い、この現代に、それぞれの立場で何を何処に向かって発しようとするのか?

重いテーマを頂いたような半日でした。
夜には合唱団の練習があり、3時に会場を出ました。
帰りは飛行機だったものですから、ちょっと仮眠をとったらもう大阪。
カラヴァッジョといい鈴木作品といい、私にとって意義深い東京滞在でした。

No.394 '01/10/31「鈴木憲夫作品研究会」終わり