No.532 '03/11/23

「ベートーヴェン」徒然なる日々


交響曲を文学的に捉えることがお好きですか?
たとえば、ベートーヴェンの第5番「運命」の冒頭、「このように運命は扉を叩く」と言ったというあのメロディー。
そこから描かれるすさまじいむき出しの葛藤をさまざまにイメージしてみるとか。
また第6番「田園」では自然と平和への思いを、その風景を、さまざまにオーバーラップさせながら聴き入る。
それらはまさに「小説」や「物語」を読むように、描き出されたイメージを言葉として綴っていく過程ですね。

聴く側としてはそんな楽しみ方もあるわけですが、演奏する者にとっては実はちょっと重荷になることもあるんですね。
指揮者には「文学的」な解釈を演奏者に講釈しながら曲作りをする人もいますが、これがあまりに過ぎるとかえって曲の魅力を見失ってしまうことがあります。
奏者にとっては「より具体的な奏法」による器楽曲としての楽しさが先決ですからね。
また、「文学的な解釈」はイメージそのものも一元的になりすぎて、イメージの広がりが狭められるようなことも起こりかねません。
ですから私など、なかなかその講釈ができないできた者の一人なんです。

明日に控えた第3番「英雄」もできるかぎり講釈しないで、リズム、音響、音の推進力といったことで共感しながら曲作りしたいと思っていたのですが、それだけでは巧くいかないところが出てくるのも確か。
ベートーヴェンに聞いてみなければ判らないところもあるわけですが、ベートーヴェンが器楽的な音響だけで作曲したとは考えられませんからやはりベートーヴェンの思い、思想を想像しなければなりません。
あるフレーズを取り出して、ここは「哀しみのため息」だとか、「闘いの興奮状態」ということは言えるのですが(そういった場面に使われる音型が伝統として受け継がれています)、どうしても意味不明、説明がつかないフレーズも存在します。
そういう時に、ここは「ためらい」なんですとか、「まだまだ、ここではまだ終わらず、突進する直前の一瞬の気概」なんて説明するわけです。

楽しくもあり、少しばかり恥ずかしさもあります(何故でしょうね)。
ナポレオンを意識した交響曲第3番「英雄」。
一楽章は英雄登場、自由への闘争、進撃開始がテーマです。一抹の不安、懐疑を乗り越えての進撃でしょう。
二楽章、有名な「葬送行進曲」ですね。誰のための「葬送」なのか。ナポレオン?、いや私はベートーヴェン自身の「何物」かを葬り去った音楽と見ます。
三楽章の「スケルツォ」、これはもう音楽の喜び、人生の楽しみそのものの表現ですね。
四楽章「フィナーレ」、ベートーヴェンの「英雄像」です。ギリシャ神話の英雄「プロメテウス」。責め苦に耐える犠牲の英雄とでもいったらいいのでしょうか、その英雄に我が身を投影したのではないか、そう感じます。
それにしても「巨人」の英雄ですね。

という具合に、全曲にわたって「筋」を作る楽しみ。「文学的解釈」の醍醐味です。
しかし・・・・・・・・。
やはり私はリズムの面白さ、各楽器ごとの音響、その変化の楽しさが第一ではないかと思っています。
「音楽」は「音」を楽しむことなのですから。
言葉に翻訳せずに楽しむことが出来る。
ダイレクトに、感覚的に刺激する。
それが音楽の魅力ですね。
「ベートーヴェン・シリーズ」前日の徒然でした。

No.532 '03/11/23「「ベートーヴェン」徒然なる日々」終わり