第64回 〔2018/04/06〕

発声(歌唱)についての近況


 この、インターネット上のウェブサイトにおいて、発声のことを書き始めて随分の時が経ちました。
《No.1「合唱の発声はうら声?》に始まり、《No.63「撥音「ん」の扱い》に到るまで、解りやすい表現と具体的な記述をとのコンセプトで書き進めてきたものです。
その後、それらの内容をまとめた拙著「ヴォーチェ・ディ・フィンテとその実践」(あなたの声帯が生かされる発声法/歌唱の明確なイントネーションと純粋ハーモニーのために)〔全音楽譜出版社〕を出版したことで更新が滞っています。
重要で基本的な事柄は一応記すことができ、その成果もあったものと思っています。
喜ばしいことには前出の拙著、及び関連のDVDも今以て多くの方々にご愛読、ご愛聴されているようです。
著書に関してはその後、補足記事や新しい研究成果の発見などがあって書きたいこともできているのですが、もろもろの忙しさに追われ書けないでいました。
 書けていない理由が実はもう一つあります。
それは、発声とは結局《「人」の問題である》ということに行き着いたからです。
ノウハウ(専門的な技術・必要な知識や情報よって得られる秘訣、やり方。こつ)は大切です!
しかし、それらは全て「人」に依るものであるということを基本的に押さえておかなければなりません。
伝統的継承だと言えども、理解して受け取り、伝えていくという流れの中では《個性である「人」》が入り込む余地が沢山あるわけです。
発端は何であったのか。何を求め、何を伝えようとするのか。これが一番大切なことだと知りました。

 発声を書き始めた動機は《純粋の響きのハーモニーを作る》、《言葉が明瞭(明澄)に聞こえる》ということの一言に尽きます。
声楽畑でない私が「発声」について考査するようになったのは、パイプオルガンを通じての音響作りが応用できたこと、
調律を通して音の調整(ピッチや音程)を経験したこと、
バロック期の音楽を中心としてそれ以前の音楽や以後の音楽の様式感を持てたことが大きな要因となっています。
取り組み始めた頃の時代(1970年代)は、ファルセットや胸声ということを示しても反応が少なく、
音色づくりに関しても関心が薄く、
「純粋ハーモニー」については様々な論が交わされていたものの、「純粋」という響きの概念が曖昧のままでなかなか実践されない、聴けないという状態でした。

 コーネリウス・L・リード著「ベルカント唱法 その原理と実践」で述べられている発声法の呼び名「ヴォーチェ・ディ・フィンテ」、その核心である筋肉の伸張性に糸口を見つけ私が一挙にメソードを作り始めたのも「今は昔」のように思われます。
元はといえば、私が欲していた〔ポリフォニー様式が演奏として構築できること〕、
〔早いパッセージが歌えること(モンテヴェルディやバッハのパッセージが目標でした)〕、
〔どのような音域でもピッチ、音色がコントロールできること〕、
〔言葉が明瞭であること〕、
そして〔ハーモニーは純正であること〕が発声法へのアプローチでした。
当時はそれらを満足させてくれる発声法がなかったからですね。
「ルネサンス音楽」「バロック音楽」そのものが音楽大学などでは教えられなかったという状況のなかでの私のあがきだったように思います。

 しかし現在、私が提唱していた発声法が至る所で聴かれるようになったのではないかと実は思っています。
上記のような条件を満たそうとの声によって各ジャンルの音楽でも整えられた響きが聞こえ、
日本語においても明瞭で多色、
多彩な母音の響きによって歌詞も解るようになり、
それも純粋ハーモニーに準拠する調整されたハーモニーで聴くことが本当に多くなりました。
とはいうものの、私にはまだまだ詳細に至っての意見もあるのですが(後は〈明るい響きでの共鳴〉の問題です)、
それらはこれからの実際の演奏によって更なる理解へと進むことだと思っています。

 発声の核心は、音楽をどう捉え、どのような思いで声を発するのか?歌うのか?
それはテクニックの問題だけではなく、「人」が放つ思いとは何なのか?ということに至ります。
どのような思いで、どのように響かせて聴き手の心に届けようとするのか。
音楽は「人」から出て「人」へと入る。表現しようとする「人」とは何か?であり、受け取る「人」とは何か?なのです。
何度も書いてしまうのですが、「その人」が問われるのです。
「音楽」とは何か、ということと「人」とは何か、とは同じだと私は思っています。

音楽とは《「人」というもの、人と人とが繋がる「人間」というものを、どう放ち、表現しようとするのか》これに尽きます。その中での「発声」問題ということなのです。

第64回「発声(歌唱)についての近況」(この項終わり)


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