第101回('05/1/3)

年頭に想う

多忙だった一年でした。
夏の「ドイツ演奏旅行」をはさんで、前半・後半とも息継ぐ暇のない一年だったと振り返ります。
今までで一番忙しかったのではないでしょうか。

今年の6月で56歳を迎えます。
「大阪コレギウム・ムジクム」を創立して30年が経つそうです。(昨年、メンバーに教えられて初めて気づきました)
早くに音楽団体を組織し、無我夢中でというか、一つ一つ「悔いのない演奏を」「理想を追い求めての演奏を」と思っての活動、それが気が付けば30年経っていたというのが真相です

「悔いのない演奏」「理想を追い求める演奏」とは、自分との対峙です。
音楽に対する思いを、技術を通して表現しようとするわけですから、自分自身の限界といつも対していなければなりません。
自分自身を超えようとしなければ「本物」にはなり得ない、というのが私の信条です。
音楽的テクニックを磨き続けなければなりません。
曲の解釈を妥当だと納得できる自分でなければなりません。そのためにも人間的に「幅」や「深さ」を増し続けられるよう勉強や体験を積み重ねていく必要があります。
演奏とは、作品に共感し、共感したものを私の「想い」というフィルターを通して聴衆に訴えることだと思っています。
作曲家のイメージ、メッセージが私の「想い」と重なりあって聴衆に伝わる。
それが「演奏する行為」だと信じるのです。
しかし、その時のフィルターが「本物」でなければなりません。
私自身を問い続ける、その姿勢を崩してはなりません。

昨年(04年)の夏頃から体調が思わしくありません。
人曰く、「男の更年期障害」(?)だと。
人の一生で体に衰えや変調が訪れるのは必至でしょう。
「更年期障害」なのか、ただの「部分的衰え」なのかは判りませんが、私が腕や手に軽い「しびれ」がやってきて、一応「変形性頸椎症」と診断されたことは生まれて初めての経験でした。
遣りたいことが一杯ある。しなければならないことが山ほどある。
演奏も一層充実してきているのではないか、と感じる昨今です。
その時に「変形性頸椎症」。
この組み合わせ、今年どのような経緯を示していくのか、私自身興味津々です。

最近頓に思うことがあります。
テレビ、広告、電車の中での会話、インターネット上、書籍等などでの「軽さ」。
様々な立場や思想による意見は多くあって良いですね。
しかし、「偏りすぎ」るのも「軽さ」も危険です。
意見は様々でよい、でもどこかに(基層になればと願う私ですが)「人を思い遣る心」を覗かせて欲しい。そう思う私です。

「人を思い遣る心」、それは人に対する、あるいは人の生き方を見る「想像力」から生まれるのではないか。
更に、想像力が一層豊かなものとなり、人への尊敬、尊厳に結びつくならばそれこそ「人」の存在が祝せられるべきものとなるのではないか。

人を批判することは簡単です。
自分を中心に据えればよいことですから。(本当の「批判」「批評」、意味ある「批判」「批評」は難しいですね)
人の意見を聞かないようにすることも容易いです。
自分の世界に閉じこもれば済むことですから。
(それにしても、人の話を聴くことは難しいですね。話し手が意図していることを聴き取ることの何と難しいことか。まして、人の話を聴いて自分の意見を述べることは更に難しいと思います。会話は人間が持ち得た最高の能力です。ですから<最高に>難しいのだと思います)
日常の生活や活動の場でこれらの事と常に隣り合わせになる私。
「人を批判・批評」しなければ「アドバイス」もできません。
そして「人の意見を聞く」ことがなければ進歩がありません。(独善的になる、またその判断は恐いです)
「人を思い遣る心」を私の目の高さに据え、基層となって物事を考えたいと思います。

今年は私にとって節目となる年のようです。
音楽することが本当に面白くなってきました。
というか、音楽することの意味、目標がはっきりと見えてきました。
「人」の尊さ、人の心の大切さ、人生の重さ。
「生命」をどう生きるか?
その答えとする音楽を通して、我が人生を全うしたいと願う私です。

第101回('05/1/3)「年頭に想う」この項終わり。


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