第123回('09/07/17)

加藤直四郎先生永眠

今年(2009年)、7月6日に加藤直四郎先生(関西合唱連盟最高顧問)がお亡くなりになっていたことを新聞で知りました。
100歳になられての永眠でした。
「加藤直四郎」、この名前は私の人生の節々で大きく影響を与えた名前です。

最近、そのお名前を思い出していることが多くなっていました。
永らくお会いしていません。(といっても、実はご生前にお会いしたことは数度ほど。一方的に私がお会いしている気持ちでいた、ということなのですが)、どうしていらっしゃるか、とても気になっていました。
新聞で知った訃報、胸が締め付けられました。

先生との出会い、それは随分と前になりますが、「ハリストス正教会」に人に誘われて歌のお手伝いとして参加したときに始まります。スマートな指揮振りとその時の音楽の流れが好印象な先生のイメージとなりました。
二度目は、私が演奏活動のスタートを切って少し経っていた頃に演奏会にお見えになった時でした。
そしてその時頂いたお手紙。
その中には、温かく、また的確な視点でのご意見が書かれていました。
演奏の批評なり感想なり頂く折、欠点の指摘をする方は多く居られるのですが(これも良きアドバイスにはなります)その時書かれていたことはそれまで書かれたことのない、私が最も大事にしようとしていた音楽上の信条に関連することでした。
そのことがどれほど私に音楽することの勇気を頂くことになったか・・・・・・。
その指摘、人に知られると恥ずかしいといった秘密(しかし生きる核心でもありましたが)、それをズバリ言い当てられた、そんな驚きにも似た衝撃でした。
こういう方もいらっしゃるのだ!
その時以来、私にとっては目標とすべき、そしてその頃の私の狭い範囲ではあるのですが、音楽人の中で最も信頼できる「人」、となりました。

前後関係が判然としないのですが、その頃にもう一度忘れられない出会いがあります。
私が振る女声合唱団が出演したラジオ放送での収録。その時のコメンテーターが直四郎先生。この際のコメントも胸に迫りました。
「小品をこれだけ丁寧に音楽作りをされていることに驚きと喜びを持ちました」
「合唱団の自然な歌に好感を持ちます」
記憶も遠くなり言葉通りではないのですが、私に残っている言葉がこのようなものでした。
これは私にとっては核心なのですね。これに感激、興奮したのを昨日のように思い出します。

さらに遡って、しかしこれは確かめる術もなくただ私がそう信じているだけなのですが・・・・・。
中学生の頃。音楽は私の毎日の日課でした。しかし、音楽家になろうとする決意や情熱もなく、ただただ楽しく音楽するばかり。
そういったなかで、その頃習っていた音楽の先生(声楽家)から「コンクールに出ては」とのお勧め。歌は好きでしたがあまり「歌」を意識することがなかったのですが「出ます」といった私。
しかし・・・・・今思い出しても不思議な体験なのですが、最初に出たそのコンクールで鐘一つ。つまり落ちたのですが!・・・・・
「声」が出ませんでした!
家を出る際、姉などは「生卵を飲むといいよ」なんて嫌がる私に無理矢理飲ませて送ってくれたのですが、意気揚々と望んだマイクの前。前奏が鳴ってさぁ、歌おうと思った瞬間声が出ない・・・・・・・・。何が何だかさっぱり判らず、そうこうしているうちに鐘が鳴った(ブザーだったかもしれませんが)、というわけです。
聴きに来て下さっていた習っていた先生が言った言葉・・・・・・「当間くん、声変わりを迎えたのね」でした。
そんなことがあって「歌」に意識した私。再度次の年にリベンジ、再挑戦です。
そして今度は鐘が連打(この時の録音が電波に乗りました。中学校では昼休みに全校に流れたと記憶します)、その時の審査員のお一人がどうしても私には加藤直四郎先生だったように思われてならないのですね。(そう思い込んでいる私がいて、後の先生と繋がります)
今となっては確かめられませんし、先生も沢山の出会いであるわけですから当然お忘れでしょう。でも私には今もハッキリ覚えている以下の言葉を覚えているのです。
「この子は将来音楽家になったほうが良い」との一言。
この言葉が私の道を決定したと思います。

ご生前、もっとお話をすれば良かったと後悔しています。
なにやら恥ずかしく、また尊敬している先生だからこそ近づけない、といった変な思いもあってお話しする機会をつくることを積極的にしませんでした。

確かめていない事柄に対しては私の思い込みも相当あるかも知れませんが、「加藤直四郎」は間違いなく私にとっては大事な名前です。
先生のような「人」にならなければ・・・・・それが私の目標でもあります。

第123回('09/07/17)「加藤直四郎先生永眠」この項終わり。


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