第132回('11/01/20)

目線が思考を生む

人と接する仕事の私です。
指揮者とはもちろん音楽を通じて何かを表現し、演奏者に意志、意図を伝えることから仕事が始まります。
一言も喋らず、説明せず、棒のみで伝えることができればそれに優ることはないと思うのですが、それは現実には難しいですね。
私は話すことが小さい頃から苦手でしたから、本当に振り始めた頃はほとんで喋りませんでした。《指揮には言葉はいらない》と意固地なほどに思っていました。
今から考えれば、不親切極まりないことですし、失礼なこと、そして傲慢に見える振る舞いだったと少し反省です。
しかし、弁解では決してありませんが、そのことで棒を振って想いを伝えることを徹底的に訓練したかもしれません。それは良かったと思っています。

喋りが苦手だったのは、私の性格だと言ってしまえば簡単なのかもしれませんが、実はその性格を作ったのは人と対応することに不安があったからではないかと思っています。
つまり、「人の性格を真っ先に感じてしまう」「人の性格を見抜いてしまう」子供だったようで、それを難なく不安がらずに気丈に対処できれば良いのですが、それとは反対の方向へとどんどん喋らなくなっていってしまったようです。
人との会話の中でいきなり乱暴な言葉遣いになったり、心ない言葉、配慮に欠く言葉、一貫性のない身勝手な言い分など、そんな言葉の応酬がとても辛かったですね。
そんなこともあってか、私は私の想いを伝えるために、私の存在を確かめるために音楽にのめり込んだとも言えるのですが、喋らずに伝えることの虚しさ、難しさは本当に身に染みています。
またそれは生きていくことの不条理に満ちたことだと悩んだこと頻(しき)りです。

現在は、どんどん喋って、振りまくって、その両面を尽くして想いを告げるとの覚悟を決めたのですが、如何せん、喋ることの訓練を怠ったことが災いしてもう四苦八苦の状態で喘いでいます。
言葉を直ぐに失ってしまいます。どんどん気持ちだけが先行するようです。感情に言葉が追いつけません。
適切な言葉が見つからない、ボキャブラリーの不足を思う気持ちがまた更に心を沈めていきます。
葛藤がそんな風に続いているのですが、とにかく伝えたいと思う強さによって今は格闘を続けています。

そんな私に、「言葉を通して伝え合う」ことの難しさを最近また感じさせられることが始まっています。
ホームページのトップページにも書いたことなのですが、言葉が伝わっていない一方通行的な会話、発する言葉の軽さ(無責任)の応酬、といったことを感じるのですね。
そしてそれは「偉そうに」喋っている結果という、凄くシンプルで陳腐な言葉に集約されるのではないかと思うに至りました。
人は皆「偉そうに喋っている」。
本人はそう思って言っているわけではないのでしょうが、思考が固定的、断定的、そして実態を伴わない表面的な言葉の並びは、話し手自身をどこかに置いての寂しい虚構の世界の様に思ってしまいます。
情報が過多ですね。
実態が伴わなくて、言葉だけが上滑りです。どこかで聞きかじりした言葉。ヴァーチャルな世界の言葉。
言ってしまえば、「経験したことがない」のに「経験している」かのようにものを言う。
それが断定的と合体して「偉そう」に見える原因ではないか。そう思うのですね。

皆が皆、全てのことを経験できるはずはないです。
どこかで見聞きした言葉を挟みます。その多様さが「教養がある」ということでもあるかもしれないのですが、話の中心はやはり経験を伴った「真の言葉」であって欲しいと思います。
「真の言葉」には「真の言葉」が必要です。
「真の言葉」の応対が「信頼」を生みます。



名前

物心ついた頃から上のような図式で会話を考えていたようです。
またそれは私の「思考」をも作っていったように思います。
(一番)は尊敬する人に対する思考です。
(二番)は同等という意味ではなく、心置きなく、信頼感を通じての思考です。
(三番)は目下の者という意識をもった思考です。

現実的にはこの三種類にまとめられるかなと思うのですが、いかがでしょう。
そして私の理想とするところは二番であることは明白です。
そして一番気を付けなければならないのは三番だと思っています。
実は、三番目(目下の者に対する思考)が一番簡単で、容易です。(ですから気を付けなければならないと思っています)
柔和な喋り口、論理風の語り口、親切風の喋り口、そのようであっても、思考の根っこが「偉そう」であっては全ては虚しいことになります。

(一番)も難しいことが多いです。
この国では目上の人には特別の言葉使いが必要です。
《敬語》がその関係を象徴します。
しかし、本当に尊敬する人に対しては「心の底から」の敬語を用いたいという気持ちは誰しも持つものではないかと思います。
使うことによって気持ち良く、背筋もピンと伸びます。
私も幾人かの特別の方がいます。生きる勇気、エネルギーを頂いている本当に尊敬できる方です。生きる喜び全てがそこにあります。
これは一方通行でも良いと考えています。私が間違いなく、心の底からの想いですから「片思い」を貫いても良いわけです。(ですから見返りが無い分、本物だと思っています)。
その思考は立場を逆転させた(三番)として私はその関係を捉えます。
信頼を得るような人と成ること。気持ちは(二番)ですね。そして例え(一番)の関係となってもひたすら上を向いている。そういった構図です。
それが私が目指す人生の在り方だと、いつしか思うようになりました。


人って、人と人との関係で成り立っています。
人間とは、人と人との間だで生きるものということです。
結局、どうしてもその間だは「軋み」ます。
幾分かでも辛さや苦しさから遠ざかるには、そして少しでも「軋むのを防ぐ」ためにちょっと人より「偉い」と思った方がいいのかもしれません。
しかし、それでは信頼感に基づいた関係を築けないと思う私です。
(一番)のような尊敬できる方との関係は、尊敬できる方が常に更に「尊敬に値する」事柄に向かって満身創痍でなければならないような気がします。
(四番)はそのイメージです。
人は人を越えたものに向かっていなければならない。
どの人も、上(超えた価値観、理想、気高さといったもの)を見続けている。(「上」が共通するものだと更に良いかもしれません)
そうであれば、人の間の軋みもそう棄てたモノではないと思えてきます。

目線によって想い方、思考が変わります。
私は上を見続けたいですね。上の目標が、実態が何なのか、しっかり見定めたいと思っています。
互いが上を見続けることで、(二番)のような関係を築きたいのですね。
しっかりと、信頼が根っこにあって喋る人間に成りたい、不安が喜びと成るような会話を交わしたい。
「目線」をどこに据えるか?
そしてその「目線」はどの位置から見ようとしているのか?それがとても大事なことように私には思えます。

第132回('11/01/20)「目線が思考を生む」この項終わり。


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