第133回('11/02/02)

コンクールの審査に思う

これまで頻繁に、というほどではありませんが合唱コンクールの審査を引き受けてきました。
NHKのコンクールや合唱連盟のコンクールですね。また、その他各団体主催によるコンクールもありました。

お引き受けする理由は
1)現在の合唱界の動向(作曲家、作品、演奏様式の指向)
2)若い人たちの現状
それを見たくてお引き受けします。
実のところ、演奏の優劣を付けるのはいつも心のどこかに痛みを覚える私です。
私の想い描く音楽の問題なのですが、音楽を競い合うことへの慎重さがその原因だと思われます。
技術的なことに優劣をつけることはできます。しかし音楽への思いや気持ちといったメンタルな部分に優劣を付けるのに躊躇するのですね。
そして、やっかいなことにその微妙な問題(メンタル)の範疇を巡ることに喜びを見いだそうとする私が居ます。もうこれでは優劣は付けられません。
全部大切な「演奏者の思い」なのだ、と感じてしまうからですね。

審査をした後、講評をお話ししたり、書いたものを読んで頂くことがあります。これが仕事として最大の重労働なのですが、私は大切なこととして時間をかけて書くことにしています。
先ずは技術的なことをハッキリ指摘する、それが第一の目的です。
アンサンブル力(いわゆる合わせの技術です。入りの揃え、フレーズの終わりの処理、声部間のバランスなど多くの要素があります)の評価ですね。
これが優劣を付ける基本的な事柄、最小限の必要条件でしょう。
しかし、更にそのアンサンブル力の原因を突き詰めていくことをすれば、それらに深く関わっている事柄、発声やハーモニーの状態も指摘しなければならなくなってきます。(強調しておきたいのですが、それは優劣の指摘ではありません。優劣付けがたい問題がここに存在します)。この辺りが評価のボーダーラインですね。
ボーダーラインを挟んで、内容は技術的なことからメンタルな部分へと移行します。
そのボーダーラインとは「言葉」です。
合唱における「言葉」の表現という大きく厚い壁が立ちはだかっています。合唱には言葉があります。(言葉の無い作品もありますが、合唱は言葉があるというのが基本的な様式でしょう)その言葉の処理(表現)が合唱音楽を左右する大きな問題(課題)となるわけです。
それは「解釈」ということでもありますし、歌い手の楽曲に対する接し方、姿勢でもあります。
歌い手がどのように感じてどう表現したいのか?しているのか?
そういったことを考えながら審査し、講評を述べます。

去年、あるコンクールでの私の講評を以下に掲載します。総評として書いたものです。その文章の後に個々の団体への講評が続けられています(ここではその部分は省きますが)。そこには技術的な面の指摘とそれらに対する対策、処置の仕方を僭越ながら書かせて頂いています。私のこれまでの経験を通しての確信を参考にして頂ければとの思いを込めています。


総評:(少し文章を直し、加えていますが、文意は変えていません)
自由闊達な演奏が聴きたいと思いました。歌わされている演奏ではなく、勝つ為の演奏ではなく、心から感じられた演奏を聴きたいのですね。
コンクールとは競い合うという意味合いが強いです。しかし、何を競うのか?
私は歌心、その表現を競い合ってもらいたいと願うものです。(テクニックはそのために必要なもの。テクニックそのものが目標ではないと思っています)
歌い手たちがいかに自分自身の感情を表現するか、この一点です。(テクニックが未熟でも表現したいという強さはそれを越えて伝わってきます)
曲の難しさではありません。曲の楽しさ、感情の伴なった歌の世界、それらを示し合い、そんなステージが良いと思っています。
歌っている皆さんの、一人一人の表情に富んだ歌が聴きたいのです。

もう一つの総評:

全体の感想:当日《高等学校の部》のステージ上で述べた講評と重複するのですが、皆さん本当に技術的には向上されたと思います。
声は明るくなりました。どうして明るい声がいいのか。それは言葉の明澄さを生み、ハモるための倍音を多く含むことができ、そして声の飛距離を伸ばすためです。(隔世の感です。何年か前までは暗く、重い声が主流でした。言葉も不鮮明でした。)
胸声の声がまだ聴かれますが、これは生徒たちの身体的成長のなかでの致し方ないところでもあり、その利用に関して若干の考慮を伴いますが、この問題はこれからの課題、として指摘しておきましょう。(これは文化的な政策として取り組まなければならない問題だと思います。多くの専門家による協力が必要です)
難しい音程、リズム、合わせのテクニック、どれをとっても上手いと思わせるものはありました。
しかし、私が気になったこと、聴きながら辛かったこと、それは言葉の意味から発せられる真の音色を聴く事が少なかったことです。
大きな声(胸声の押しの強い響き)でもって圧してくる音響。(内容によってはそういったものを求めなければならないこともあります。しかし、それはあくまでも部分的な筈だと思うのですね)
日常性との繋がりの薄い、難度の高いリズム(変拍子、混合拍子)。
それは心から(感情から)発せられた響きではなく、リズムでなく、共感を伴わない無機質な音響として飛んでくる。それも真摯に。
合唱は言葉のある音楽です。言葉は人間の感情を伝えます。歌う人の思いを伝えます。言葉をどう発するか、それが重要な課題となる芸術分野です。
母音の確立(音色の確立)。単語の繋がり、流れ(品詞の関係)。感情から来るアーティキュレーションの使用。
これらが基本となって響きが作られていく。その過程で歌い手と作品、そして音楽が一体となっていく。歌い手にとって不可欠な表現手段となる。音楽と身体が一体となる喜び。そこにこそ合唱の魅了があると思うのですが如何でしょう。
もう威圧的な大音響やこれ見よがしの(きついかもしれませんね)音と変拍子の音楽づくりを卒業したいと思うのですが・・・・。


価値観は多様です。若い人たちがどうようなアプローチをしているのか。どのような感性でどのような手法で表現しようとしているのか、それが知りたくて審査を引き受けています。
私自身の演奏への大きな批判ともなれば、その思いもあります。独善的に陥っていないか。大事な事を忘れてはいないか。

大きな大会になるほど失望することが多くなるようです。
小さな予選の演奏に涙します。発声もまだまだ、アンサンブル力もまだまだ、しかしそこには真に歌い手の心が繁栄しています。真っ直ぐな歌心があります。
余計な飾り物がありません(その余裕がありません)。そしてそこに見えるものは歌い手その人の等身大の「歌」です。これに私は感動します。
合唱は他の声と響き合わせる芸術活動です。独唱ではない!というところが大きな特徴ですね。沢山の個性ある声をどう協調、調和させるかそれが西洋音楽に於ける合唱の真髄です。
現在は合唱の様式も多種多様になりました。西洋様式では表せない作品も出てきています。演奏者、指導者の見識が問われるところです。
そういった見識も聴きたいですね。知的な喜びが湧きます。

オーケストラと合唱の団体を持って活動する私です。その活動を通して感じることなのですが、合唱は歌いたい人が主流のように思われます。オーケストラなどの器楽の世界とは少し異なります。訓練の仕方も違います。合唱の演奏会には合唱をしている人が多く来られる(最近はこれも少なくなってきているようですが)。あからさまに「合唱は別物。あまり聴きたくない」という音楽愛好家(器楽を聴かれる音楽愛好家)の声を随分聴いてきた私です。残念でならないのですが、その原因を作っているのも合唱関係者ではないかとの責任と反省が私にはあります。もっと多くの音楽愛好家の方々に聴いて頂けるような開かれた音楽空間にしたいと私は考えます。
声の特徴が普遍的な音楽美として万人の共感を得る。そのようなアプローチをしたいですね。
人間が織りなす声の妙、合唱。
人の生きる姿を表現する。息吹としての共感を得る。夢。希望。命の尊さを感じる。人間の可能性と素晴らしを示す。
作られた絵空事でなく、習性に頼っているだけでなく、狭い価値観に囚われているのではなく、閉じた世界の表現でなく、心が豊かに広がり、未知なる世界への飛翔の場、そのような合唱を目指したいと思うのですね。
若い人たちの現場が気になります。