第134回('11/03/25)

演奏者、指揮者、聴衆のバランス

以前、以下の様な文を書きました。

「マイヌング」第116回('07/12/11)「聴衆と幸福な時間を共有する条件とは」

繰り返し私の頭の中を巡る問題かもしれません。演奏会を終わる毎に、聴き入って下さっていた聴衆の方々に感謝と共に様々のことを考えます。
音楽が生み出す感動とは何なのか? 演奏会場が幸せな空間となる条件とは?
上の文章の最後に結論じみたことを書いています。

『演奏を楽しんでいただく、これが幸福な時間を共有する条件です。
演奏が「良いもの」である、これは自明の理。
そこに、期待し、望まれる聴衆が居る。
演奏の進行に併せて、両者がどんどん変化し音楽の神髄を共有していく。
そこに演奏者と聴衆の理想を見ます。

結局、演奏者として幸福な条件を考えるとき「好きになっていただく」、これに尽きるのではないか。
つまり「ファン」になっていただくことを目指さなければならないということです。
ファンが一万人集まったライブ、などと聞くことがあります。
(一行省略)
こういったコンサートでは、演奏する者の一挙手一投足が全て「演奏」として聴衆に受け入れられているものと思われます。
ここでは、聴衆も演者もその空間を最大限に燃え尽きようとする方向性を持ち、また探ろうとする努力も見て取れます。
少し危険な要素もあるかと思うのですが、こういった熱く燃えたライブを私は羨ましいと思う気持ちも強いです。
音楽が持つ「熱狂」(しずかに熱くということもあるかもしれません)という要素がそこにあるからです。

しかし「対峙する」という言葉も好きです。
演奏者と聴衆とが「対峙する」。
「向き合うこと」。演奏者からの発信、そして聴いて下さる方からの発信、それらが軋めいてこそ「意味ある」ものになっていくのではないか。
聴衆が「何でもかんでも受けいれる」というのではなく、批判を込めて鑑賞する、そのことで更なる充実感を味わう。
「刺激」し合う、ということが芸術の在り方の一つではないか、そう思います。
「コンサート」、それは待ち望む聴衆が居て、それに応える演奏者が居る。その両者が相互の信頼に立って楽音一音一音で時の瞬間を刻んでいく、軋むことも含めて呼応し合う、刺激し合う、また享受し合う、これこそが「聴衆と幸福な時間を共有する条件」なのだ、そう私は思うのです。』

「ファン」になって頂くことと書き、その後に「対峙」も好きだ、と相反するようなことを書いていますが、「ファン」だからこそ「対峙」する気持ちも忘れず正直に表す。
「好きだからこそ」「応援したいからこそ」の信頼の上に立った批判をする。これはもっとも嬉しい、喜ばしい演奏者と聴衆の関係かもしれません、そう書きたかったのだと思います。
そう書いておいてくどくなるのですが・・・・[演奏のレベルが余りにも違いすぎるということは論外だと思うのですが]、時折心重たくなる批判があることもまた事実です。きっとそれは「批判」をするために聴いておられた結果でしょう。それは不毛な時間となってしまうのではないかとつい危惧をいだいてしまいます。
聴き方って時々刻々と変わっていきます。その時々の環境や心理的な事柄で聴き所も変わってきます。演奏もまた同じです。固定的に捉えた判断をすることの危うさはこれまでに私自身多くの苦い体験をしてきました。自身にとっての戒めです。

演奏者(合奏団や合唱団)、指揮者、聴衆との関係をまとめておきたいと思いました。作曲家も入れたかったのですが、ここでは省きます。先ずは作曲家から発せられた作品を受け取って、演奏される状態にあることを前提としましょう。

演奏者と指揮者に共通する事柄があります。それは作品に《惚れ込む》ということですね。そこからしか始まりません。
演奏したい曲がある・・・・、演奏者(合唱団/合奏団)は指揮者を通してその作品を演奏することの面白さ、楽しさを示唆される。
演奏会を開くこと自体が目的であるとか、作品や作曲家の紹介の域を出ない演奏、では本来あるべき演奏会ではないと思います。作品そのものの魅力に触れ、体感し、聴衆に伝えたいと心底思うところからしか演奏会は始まりません。どこまで演奏者一人一人がその域まで達せられているかということが大切になってきます。

指揮者は演奏者と聴衆とを繋ぐ存在です。解釈を通して演奏者にその作品の魅力を伝えて、具体的に整理する、それが仕事です。指揮者のみが独善的に目立つ演奏会は本質から外れると私は思っています。
理想は、実際に空間を響かせている演奏者が何時も新鮮で、新しい発見ができるように導いてあげることです。自身を示すことではありません。創造的な瞬間を創る手助けをすることです。

聴衆は指揮者を通して、演奏者を見るのでしょうか? 演奏者を通して指揮者を見るのでしょうか? 指揮者、演奏者を通して作品を鑑賞するのでしょうか?あるいは作品だけに集中しているのでしょうか? 
何に喜びを感じようとするのでしょう? 作品でしょうか、作曲家でしょうか、それとも出演者、指揮者の人とナリでしょうか?
私は思うのですね。聴衆は先ず何よりも演奏者に興味を持たなければならないと。そして興味ある演奏者によって演奏される曲に、喜びと触発を見い出せなくてはならないと。
聴衆にとって大事なことは《興味》です。そしてそれはできることなら歴史上の《興味》となればより良いかもしれません。人が創り出す時間の流れの《興味》ですね。
結局、演奏会場(ライブ)にとって必要なことは人に対する《興味》ということになります。全ては人が創り出している空間なのですから。
そしてできればその《興味》は先へと、未来へと[繋がる]ことになれば最も幸せな関係になるのではないかと思っています。「歴史上」という言葉を使ったのはそういった意味です。
結局、一緒に歩もうとする「ファン」の方・・・・ということになるのではないでしょうか。

作曲家によって作品が生まれる。指揮者はその作品を通してその魅力を伝えたいと思う。演奏者は指揮者を通して作品の魅力を知る。そして聴衆は「今」と「未来」に「《興味》ある演奏者」によってその作品の魅力に触れる。このような関係をイメージします。
指揮者と演奏者の《興味》、そして聴衆の「今」と「未来」がキーポイントだと思っています。
演奏者、指揮者、聴衆のバランス、それぞれが充実感に満ちる空間。やはり月並みとなってしまいますが、この三者が《興味》と《喜び》を一(いつ)にするように互いに向き合うことなのではないかと思います。
同じ方向へ向き合って望めるような・・・・そのような演奏会をし続けたいと思っています。

第134回('11/03/25)「演奏者、指揮者、聴衆のバランス」この項終わり。


【戻る】