第144回('14/05/14)

「医混」10年の歴史

《「音楽」は人間の本質と深く関わります。
怒りの音楽は同じ怒りの心に伝わりやすいでしょう。優しい音楽は聴き手の優しさに寄り添い更に深く優しさを誘うでしょう。悲しみの音楽はいつしか励ましの音楽となって生きるエネルギーをそっと与えてくれることでしょう。
様々な想い、感情の起伏、心の震えとしてのそれらの想いは空気を振るわせての「音・声」となって、聴衆の同じ想いの人の心に同じ想いを伝えます。
「感動」とはその共振です。

人間が味わう沢山の感動が感情のヒダとなってその人となりをつくります。
想像するのですが、医療での大事なことの中に、〈人の心の分野にも精通すること〉が入るのではないか。
協調しながらアンサンブルを築いていく。自分を信じ、他を信じて協和を目指す。それぞれの境遇の違いによって生じるだろう思考の差違を乗り越えての共同作業です。
人と人とが織りなす協調と協和、一人の声が他の声と響き合い、新たな響きを作り出す。それらはネガティブに「合わせられた」ものであってはなりません。また「響き合う」ものであってもなりません。
人の思いとしてポジティブに練り上げていくものだからこそ真の強さを持つ、それでこそ作品のメッセージが歌い手のメッセージと呼応し、聴き手へと伝わる。そう思っています。
〈人間の感情(本質)〉と向き合い、時には〈自身の心の分野〉と対峙して〈他〉との「協和」へと繋げる。
合唱での共同作業を通して「思いが一つ」となるプロセス。それは想像以上の困難さを伴います。
しかし、それが人間としての深さと幅とを作るのではないか。そしてそれが彼らの将来において活かされ、〈人の心の分野にも精通〉して役立つことになるのではないか、そう信じるのです。
この困難な業を継続させる原動力となるのがそれぞれに体験する「感動」でありそこから湧き起こる「喜び」です。
「感動」と「喜び」があるからこそ、それぞれの「自己」を超えて「協和」へと向かわせるのです。
私のアドバイスはその感動を伝えることにありました。歌い手より少し前に感動を伝える。そしてその感動は言葉ではなく、また経験としての示唆といった〈教え〉の類でなく、私自身の体全体で表現する私そのものの感動でありたいと願っていました。
「感動」を学生と共有したい、その一心です。

今宵、彼らたちは聴き手の私たちに大きな「想い」を伝えてくれることでしょう。
彼らが費やした多くの時間と労力、それらがそれぞれの「想い」のヒダとなって演奏と化しました。
その「想い」が「感動」でなくて何でしょう。 皆様の温かいご声援をいただきますよう、そして感動の「共振」となりますよう願ってやみません。》

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上の文章は第53回定期演奏(2009年)への私の挨拶文です。2003年に音楽アドバイザーに就任してから6年が経っていました。
成長を続けていた「医混」への私のスタンス確認であり、学生に対する姿勢をよく表していると思います。


就任後初めての定期演奏への挨拶文も次に掲載しておきましょう。2003年12月7日に稿了しています。(定期演奏会は翌年2004年1月)

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《今年、「音楽アドバイザー」として「医混」とお付き合いすることになりました。
それは今日、指揮をする大島一夫君とのMailがきっかけ。
私が主宰する「シュッツ合唱団」の練習に見学、参加したい、とのやり取りがその内容です。
昨年の「夏合宿」に参加した大島君、シュッツ合唱団のメンバーに揉まれながら一生懸命合唱に取り組んでいるその姿は、感動的ですらありました。

「医混」を「楽しくて質の高い合唱団にしたい」と言った彼。

昨年の定期演奏会のライブ録音によるCDーRを聴かせていただいたのですが、その響きに正直驚きました。
私が提唱する発声や音楽が、瑞々しく、そして粛々としてそこに響いていたからです。
丁度その頃、団改革の思いとも時期が重なっていたらしく、いろいろ相談を受けていたのですが、この演奏を聴いて私が「関わってもいい」と思いました。

今年に入って彼らの練習に参加。
彼らとの練習は実に楽しいものでした。
「打てば響く」、乾いた地に水がどんどん吸い込まれていくように彼らは変化していきます。
実に楽しく、密度の濃い時間の流れでした。
その練習を通して、彼らの発声、音楽がまだまだ広がる可能性があることを確信しています。

響きが明澄であること。
言葉が明瞭に聞こえてくること。
楽曲の構築性が活かされること。
ハーモニーが整っていること。
イントネーションが正確で多彩であること。

これが私の目指す合唱の特徴でしょう。
完全なる楽器としての「声」、その魅力、可能性を最大限に生かす。
その手伝いをすることが私の役目だと思っています。
「合唱の世界」は広く、深いものです。
人の「業」としての「合唱」がいかに魅力的で面白く、かつ困難を伴い、それでいて楽しく、また人智を越えての神秘をも含んでいるか。
そのことを「医混」の皆さんが演奏を通して今日、示してくれることと思います。
新生なる「医混」。
皆様の暖かい拍手をもって迎え入れられることができれば、私にとってこれに勝る喜びはありません。》

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「医混」との出会いは嬉しいこととして記憶に残っています。指揮者にとって好ましい出会いでした。
「医混」のOBであり、「名古屋ビクトリア合唱団」の現団員でもある平野隆さんに私が「医混」と関わりを持った経緯を書いて頂きました。その全文を掲載します。

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2001年の春、指揮者になり、邦人曲の選曲のためにCDを購入したのが先生と出会うきっかけでした。
その頃の医混の定期演奏会は黒人霊歌、アトラクションステージ、邦人曲の3ステージ構成でしたが邦人曲は8月の夏合宿の1週間で音取りから始めて音楽作りまでする、というのが伝統とされていて、選曲は新入生が入団した5月から6月頃までにすることにしていました。
その年は、45回の記念演奏会でOBOG合同ステージがもう一つあることが決まっていましたので邦人曲は軽めのものが良いだろうと何曲も提案したのですが、団員の(主に大島くんだったような…苦笑)賛同を得られずに困っていました。
CDを購入するきっかけになったのは、当間先生のホームページのコンテンツである「合唱講座」でした。
先生がいらっしゃる前に医混がお世話になっていたボイストレーナーの先生も胸声と頭声をひっくり返ることなくつなげられるように、合唱はmixed voiceで、と指導されていてコーネリウス・リードの「ベル・カント唱法〜その原理と実践」が良いとおっしゃっていたのですが長い年月ハモれずに困っていました(ソプラノは五線の上の音は確実に届きませんでした)。
どうすればハモれるようになるか、インターネットで様々検索し先生のホームページにたどり着いた時、とても興奮したのを覚えています。
実は、この2〜3年ほど前、武満のすごい演奏をCDにした大阪の合唱団があると先輩(ぼくが医混に入るきっかけになった人でした)に教えてもらっていたのですが、このときに、その二つが結びつきました。そして、届いたCDを聞いた時に驚いたこと。
同じコーネリウス・リードの本を手本にしながら、これだけ違う音の世界が広がっていることに驚嘆しました。
(ボイストレーナーの先生は名古屋で合唱団を持っていますが、全然ハモっていなかったのです)
「方舟」は学生合唱団の演奏会で何回か聞いて、難解な曲という印象だったので、全く候補に考えていなかったのですがシュッツ合唱団のCDを聞いて、これしかない!と部室でCDをかけまくって団員のみんなを説得(洗脳?)したような覚えがあります。
しかし、いったいどうすればこんな演奏ができるようになるのか途方に暮れCDを聞いた感激と練習見学のお願いのようなものをシュッツ合唱団の掲示板に書いたような気がします。対応して下さったweb管理者の河村さんが、ちょうど木下牧子作品集のCD収録のための練習をしていて夏合宿もあるので、もし来たかったら先生に聞いてみましょうか、とメールを下さって合宿前に一度ご挨拶に、と夏に大阪のどこかの公民館に大島くんと二人で伺ったのが、先生と初めてお会いした日でした。
その後、なぜか大島、川畑と続けて毎年合宿にお邪魔するようになり…あとは先生のご存知の通りです。

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音楽アドバイザーに就任してからの「医混」は目覚ましい成長を続けたと思います。もともと、その素地があるとの判断で引き受けたものでしたから、当然ともいえる経緯。その成長ぶりは心強くもあり、私自身の誇りでもありました。学生たちの自主性を重んじて、「アドバイザー」としての関わりを提案したことは正しかったと思ったものです。指揮者としてとか、音楽監督のような位置でなく、あくまでも学生たち自身による定期演奏会であって欲しいとの思いを強く持って引き受けた仕事です。それは学生たちによる自主的練習を前提にしています。それに必要な団としての方向付けと、それに伴う専門の技術、未来を見据えた音楽的アドバイスを年間を通じて行う、それが私の仕事なのだと解しました。
私の大学合唱団のイメージ、それはイギリスのケンブリッジ大学やオックスフォード大学で現在まで連綿と続いている伝統ある合唱団です。
引き受けてから6、7年間は学生諸君とのコミュニケーションも非常にうまく取れていたのではないかと思います。
(これは学生側の努力によるもの。はじまったころは練習後よく飲みに行きました。学生も私も向き合い、方向性を確かめ合っていたと思います。今振り返っても良い関係が続いていたと思います)
しかし、大学の合唱団が持つ問題性の一つでもあるのですが、年々新しい学生たちが加わり、経験を積んだものが卒業していく。
この当たり前の循環が学生間での共有を薄めていくという事態になることがあります。
学生が入れ替わっても団のレベルを一定に保つということが私の仕事なのですが、それを可能にするには学生間と私の関係をより深めることをしなければなりません。
しかしながら、その年々(としどし)における学生間のコミュニケーション、私と学生とのコミュニケーション、が微妙に取れにくくなっていたと、その頃から感じるようになっていました。これを修正し、前進させる要素が互いに繋がっていれば問題は起こらないのですが、(最近思うことに)世代の間には昔には到底考えられないような溝を感じることが多いです。きっと学生たちも同じ感覚ではなかったかと想像しますが。
価値観の違いということだけではないと思います。思考のズレといっていいでしょうか。社会性と私は思うのですが、対人的に向き合おうとする方向性に共通項が少なくなってきているように思えています。
すべては互いのコミュニケーションの問題なのですが、これを円滑に行うためにはそれぞれの努力がなければ成り立たないことは自明の理です。しかしながらそれが残念なことに少しずつズレが大きくなっていきます。
振り返れば、第50回定期演奏会(2007年)、そして5年後の第55回(2012年1月29日)での定期演奏会では現代を代表する作曲家による委嘱作品を初演するという快挙をなしとげる結びつきでした。それは全てが一つになろうとする動きのバランスで果たされてきたものだったと思います。
以後、コミュニケーション不足を思いながらの駆け込みアドバイス。ここ二年はほぼコミュニケーションが無い(と感じる)関係になっていたように思います。(しかし、その中でも定演では私の期待に応える充分な演奏、成果を成し遂げていました。練習時の混沌の音楽があのようなピュアな音楽になる、「医混」との歴史を自負する終演後の思いでした)
コミュニケーションを円滑に運ばせたいと願うのですが、その難しさを思い、考えながら一応の区切りをとの思いでここに記しておこうと思います。

第144回('14/05/14)「「医混」10年の歴史」この項終わり。


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