第94回('04/5/11)

「演奏にあたって」を転載

2004年5月9日(日) 4時 いずみホール
シンフォニア・コレギウムOSAKA 第46回定期演奏家
〔ベートーヴェン その魅力のすべて シリーズ〕
のプログラムに掲載した私の「演奏にあたって」の前半の部分を転載します。
(演奏された〔交響曲第一番 ハ長調 op.21〕とハイドン〔ミサ曲 変ロ長調「テレジア・ミサ」〕の解説の部分は割愛しました)


【演奏にあたって】

最近「演奏にあたって」を書かなくなりました。
曲目への想い、アプローチの要点、歴史的意義、演奏活動での位置づけなど書くべきことが多いのですが、書かなくなっています。

言葉の重み、そして虚しさが私の中でどんどん膨らんできている、それが原因だと思います。

私の主張、作品へのアプローチは、25年ほど遡るそれぞれに書き連ねた「演奏にあたって」の基本姿勢と変わりありません。
音楽は「ただ音のみで表現する」もの、それに付随する知識はそれ自体が人間の知的な営みとなる大きな喜びの世界ですが、知識と音楽はその間に明確な境界線を持っているのではないか。
その交叉という魅力的な営みも人間の知的好奇心を揺さぶる素晴らしいものではあるのですが、先ずは「音」を聴くという感性が優先させられなければならない、という私の主張とアプローチでした。

一貫して書いてきたこと、それは「音楽は現代においての切実性」の現れでなければならない、ということだったと思っています。
私の選曲は、そこから発しています。
「歴史」にこだわるのも特徴です。先人たちに学び、今に学び、未来へとつなげる、このことにこだわりました。
「今」をどのように見るか、言い換えれば「今」をどう生きているか、そのことが過去と未来の見方に大きく関わりますから、私の思いはまさに「今」を生きる私の告白だったと言えます。

言葉以前に音楽がある。
言葉になる前の「想い」が音楽の世界。
言葉にしてしまえば、もう音楽は別のものになってしまう。
言葉としての知識が音楽を窮地に追いやるのではないか、面白さを奪い取るのではないかと危惧する私です。
書くことへの虚しさはここにありました。

〔転載ここまで〕

世の中の動き、人の思い、歴史の流れ、主義主張など揺れ動きます。
この揺れ、〔振り子〕のように、一方に振り切ってしまうとまた戻る動きと同じでしょう。
私の「虚しさ」が消え、また「書きたい!」と思う時もきっと来るだろうと思われます。

いつも書き、言い続けていることなのですが、一番「人」にとって大切なものは〔生命〕。それを畏怖し、尊び、伝え、そして大切に守っていく、そうでなければなりません。
「人」って結局、人を理解し、他を受け入れようとするその行為の中でしか〔生命〕の大切さを示せ得ないのではないかと思っています。
書くことの「虚しさ」、実はプログラムには書けなかったもう一つの理由がこのことにありました。

〔生命〕の軽視、「現代」にそれを感じる私です。
人として〔生命〕を感じたい。
人の〔息〕を感じたい。
私の〔息〕も感じてもらいたい。
しかし、「無関心」がじわりじわり、ひたひたと世の中をむしばみつつあるのではないか。

「音楽」はそれらを払拭する、そう信じてきた私です。
「音」に語らせよう、「リズム」で示そう、それが〔生命〕そのもの。
「振り子」、思いっきり振ってみたいです!

第94回('04/5/11)「「演奏にあたって」を転載」この項終わり。


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