第95回('04/6/8)

「人」を送る意味

これまでに教会オルガニストとして、数え切れない程、葬儀でオルガンを弾いてきました。
中には親しくお付き合いをしていただいた方や、お世話を受けた方々もおられ、式では涙が止まらず、その方との様々なシーンを思い浮かべては楽譜が見えなくなるといった辛く、それは悲しい体験でした。

また、亡くなった方とは一面識も無く、オルガニストとしての務めとして奏楽をお引き受けしなければならないこともありました。
そういった場合、「弔辞」などお聴きして初めて亡くなった方を知ることになります。
その時にも私はよく泣きました。
それはご家族や親族の方々、そして参列されている関係者やお仲間たちの深い哀しみの様子に胸が痛くなり、こみ上げてくるものがあったからです。
送る側の想いの深さ、その様子、それによって私のようなそれまで直接関係のなかった者にも、「別れ」の悲しさ、辛さが痛いほど伝わりました。
それらの経験によって、<人に想いを馳せる><人を思いやる>ということとはどういうものか、教えていただいたように思います。

他の所にも書いたことですが、私の母親は私が高校の時に亡くなりました。父親は私が大学のときに亡くなっています。
私はどちらの時も泣きませんでした。いや、泣けませんでした。
「死」というものの悲しみも、「別れ」ということの恐れも、私は理解できなかったからだと思います。
悲しみや恐れというような感情ではない、別の思いが私を包んでいました。
母親が亡くなった時、とても私は怒っていました。母を哀れんでいました。
病気に対して、医療に対して、そして母親の病床での変わり果てた姿に。
父親が亡くなった時は、男の哀しさ、男の弱さに私自身のこれからの人生を重ね合わせ、その重さや辛さと対峙する思いが強く、泣いてなんかいられないという気持でした。

思えば、私は小学3年頃から「死」のことを考えていた変な子供です。
その原因は家庭環境にあったことは間違いありません。
私の周りで起こる様々な出来事が、知らず知らずのうちに私をそういったませた子供にしたのでしょう。
「死」はいつも私の関心事でしたし、考え続けていた事柄でした。
死に臨むとき、痛みが続くような、肉体的な苦痛は嫌だと思っていましたが、「死」そのものへの恐怖はありません。
両親や兄弟の死を通しても、「死」は自身の<恐れ>には成り得なかったのでしょう。

時が経つにつれて、両親への思いが変化していきました。
素直な気持ちでほんとうに感謝している自分、私をこの世に生んでくれたことを心から感謝している私。
両親との「死」、そして「別れ」は、悲しみとか恐れとかではなく、当然の人生の区分として、<自然の理>として私の中に残ったのです。

生きることのエネルギーを外に向けていた私が、少しだけ「人の哀しさ」を知った時だと思います。

「死」を考える、見つめて生きる。それは人を強くし、優しくし、生き方を豊かにしてくれるものなのかもしれない、と思うようになりました。
「死」を見ないで、避けて通ることもできます。しかし見つめて、送り、考えることは人としてとても大切なような気がするのです。
「死」や「送る」ということに意味があるとすれは、それは亡くなった人の事を想い、その人の人生を想像することの中にあります。
自分の事ばかり、たえず自己中心になりがちな人間ですが、他人の人生を想像し、思いやりに至ることができれば、どんなに素敵だろうと私は思っています。
「人」の人生を互いに関連させ、交叉させる。
「人」として避けることができない共通項の「死」を見つめることによって、深くそれぞれが結びあえるのではないかと思うのです。

2004年6月1日、私の大切な五十嵐玉美が亡くなりました。

彼女を見送りました。
仲間の涙の中、棺に眠っている彼女は微笑んでいました。
涙の人々は明るく力強く歌ってくれました。

「生」と「死」について彼女と長い時間をかけて話してきたことを思い出します。
「今日を精一杯生きよう」。
掛替えのない今日を精一杯生きて「歌い続けよう」「歌の楽しさを追求しよう」、それが私たちの結論でした。
しかし、彼女は「まだ歌いたい曲がいっぱいある。まだ死にたくない!」との思いの中で他界しました。
悔しくてたまらない!それが私の思いです。

「別れ」は悲しくないと、本当に今思っています。
彼女は私の中にあります。
仲間の中にあります。
私たちの生き方の中にあります。

「元気に明るく送りたい」、それが彼女との約束でした。
病気に打ち勝つことができなかった彼女は悔しかっただろうけれど、しっかりと意志を受け継いだ仲間の涙の中で、ニコッと微笑み、幸せそうに「仕方ないね。ありがとう」の一言を残して旅立ったろうと思います。

「別れ」を人は、<区切り>としたりあるいは<収まりを付ける>意味で捉えたりするかもしれません。
しかし私にとっての「別れ」は、新しい出発となる<継続>です。

死者との関わりや深さなどとは関係なく、死者の意志を受け継ごうとしている者の「生き方」のなかに<死者が生きる>。
そこにこそ生きる者の真実があるのではないか、そう私は思うのです。

第95回('04/6/8)「「人」を送る意味」この項終わり。


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