第97回('04/7/30)

人は何故生きるのか

人は何のために生まれてきたのか?
何のために生きているのか?
人は何故苦しまなければならないのか?
苦しくても何故人は生きていかなくてはならないのか?
そんなこと、若い頃よく考えました。
思い出す限りでは、10歳頃がその考え始めですね。

どうしてそんなことを思いめぐらしていたのでしょう。
今思い出しても、恵まれた幸せな生活を私は送ってきたと思うのですが、私の周辺はそれと違ってかなり「疾風怒濤」のような荒れ狂った環境でした。その影響での思考でしょうね。
まぁ、私自身の心の奥底にも穏やかな表面上とは違い、絶えず渦巻きながら吹き荒れているものがあったからこそそれらを見、また受けとめられた、ということなのかも知れませんが。

今になってもこれらの疑問、時折思いを巡らせることがあります。

最近読んだ本の中に面白い例え話を見つけました。
「生きるということは飛行機に乗っているようなものだ」というのですね。
そしてその飛行機に乗ると、機内放送が「皆様、この飛行機は墜落します。しかしまだ先のことですので、それまで映画・お食事などごゆっくりお楽しみ下さい」と告げます。
飛行機に乗っている時間。70年〜80年ということでしょう。これが人生であると。
この飛行機に乗って人はどう生きようとすればよいのか、というわけです。
「映画」「お食事」をどう楽しみ、喜べばいいのか?ということですね 人は必ず死ぬ。死に向かって飛んでいる。
例外なく人は死ぬ。その死までどう生きるか。それが人としての最大の悩み・苦しみだと。
これとどう取り組んでいくかが人としての最大の課題だと。
「飛行機」、なかなか面白い例えです。



人は何故生きる?、その質問に私は今こう答えるでしょう。
《人は何のために生まれてきたのか?》
生きることの幸せ・喜びを得るためです。

《人は何のために生きているのか?》
全ての人と生きる喜びを共有・共感したいからです。

《人は何故苦しまなければならないのか?》
悩み・苦しむことこそが、生きる幸せ・喜びを強固なものとするからです。

《苦しくても何故人は生きていかなくてはならないのか?》
真の幸せ・喜びに至る道にすでに入っているからです。

真の幸せ・喜びを強く望めば、それが堅固なものであって欲しいと願うものです。
一時的な喜びや満足ではなく、どんな事態が起こっても崩れず壊れないようなもの。
崩れず壊れない堅固なもの、それは<信じる心>ではないかと私は思っています。
《全ての人が生きることの幸せ・喜びを得る》、そう<信じる心>です。
人って<信じる>ことで生きている、そう私は思うのですね。
悩み、苦しむことの絶えない人の一生です。
悩み、苦しみ中にあっても<信じる>ことのできる心で有り続けたいと私は思います。

第97回('04/7/30)「人は何故生きるのか」この項終わり。


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