第4回

「批評」の批評

あるものを見たり聞いたり体で感じたことを人に伝えたいと思うのは自然です。
その際、普通は言葉を使って伝えます。勿論、言葉を使わず身ぶりや表情など、体を使って表現することもあります。それは自分自身に対する確認の役割を担うこともありますし、コミュニケーションの手段であったり、また、共通体験を人に確かめるといった場合もあります。
今回のテーマである「批評」はその行為を一歩進めた段階での伝え方です。
「批評」とは、話したり、書くことによって物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論じることです。
これを、数人の仲間やグループ、サークルの中で論じあっている分にはいいのですが、より広く、メディアを使っての「批評」的発言は影響力が大きいだけに考えておかなければならないことが沢山あります。
指揮者という仕事柄、この「批評」というものに随分悩まされました。
感想を率直に言わして頂ければ、雑誌や新聞などに掲載されているもの中には一体何が言いたいのか、何がポイントなのかさっぱり見えてこないものが少なくありませんし、また、広告塔の役目を果たすためだけではないかと勘ぐってみたくもなるようなお座なりの記事も目立ちます。

書かれたもの、聞いたことを批判するにはそれなりに「批評」の分野に手を染めなければならない気がずっとしていました。
人の「批評」を批判するにはそれなりの覚悟が必要です。そしてまた論旨が噛み合わうような論じ方をしなければなりません。中傷でなく、「批評」の批評を時折この「マイヌング」で展開するつもりです。
その中から、「批評」とは何か?が見えてくるのではないかと期待します。

「批評」には時代と民意が反映します。「批評」が活発、かつ真剣におこなわれている時は社会が健全ではないかと思うのですが、いかがでしょう。
しかし残念ながら現代では低迷しているような気がします。これは「批評する側」に問題があるのか、それとも「受け手」に問題があるのか。

「評論家」と呼ばれる人達がいます。評論だけで生計がなりたっているとは我が国では考えにくいのですが、日頃は大学で教鞭をとってられる方が多いのではないでしょうか。以前から不思議に思っているのですが、どうして雑誌社専属、新聞社専属の音楽評論家がいないのでしょう。
日頃読んでいる批評の中に無責任なものがあるのを防ぐためにはこの専属制を用いれば良いと思うのですが。
新聞の批評が載るのが遅いのも考え物です。どうして演奏会があった次の日に掲載されないのでしょうか。演奏会が終わって一週間も経ってからの批評文など旬を過ぎた食べ物のように何か味気ないもののように思います。

時折忘れた頃に、「評論家(批評家)」を評論(批評)する企画が雑誌等で組まれることがあります。しかし実際実行されたのを私は知りません。
このような企画が提案されるということ自体、評論家に問題があるからなのでしょうか。

新聞と読者、演奏者と聴衆、政治家と有権者、どの関係も同じ問題を含んでいます。
よりよい関係を築いていくことは結局、人と人との健全なぶつかり合いをするために論じ合うということです。
一方通行ではダメなわけです。
ということで、私は「評論されたもの」に評論していこうと思います。
そして、これを読んでくださっている皆さんに、その評論を評論していただければ良いわけです。多くのご意見をお待ちしております。

目にとまった文章や話題を取り上げるために、これからはこの「マイヌング」のページの更新日を不定期とします。
月一度の更新では間に合わなくなるでしょうし、先にも書いたように旬に遅れるのでは意味がありません。