第6回

Critique(2)

前回に引き続いて「批評文」を取り上げます。
前回の文は「?」の例でした。
今回は痛快、一気に読めますし、読み物としても面白い例。それでは始めましょう。
それは前回文の翌日、同じ朝日新聞の夕刊に載ったものです。今まで大阪版というのでしょうか、エリアのことはチョット詳しくは解らないのですが今まで掲載される欄が無かったそうです。(これには驚きました。この大都会で、それも有数の新聞社の一つである文化欄に関西の演奏批評の枠がなかったとは!)
それが復活し、響 敏也氏が担当されることになったそうです。
今回はその氏の書かれたもの。
96年7月25日(木)朝日新聞夕刊
「男の『女声』甘く危険な魅力」と題してカウンターテナーのドミニク・ヴィスの演奏会評が掲載されました。
この文章には解説は不要。実に明快、そして軽く粋な文章。これを読めばそこに居合わせなかったことを嘆くしかないし、演奏会にも行ってみたいと思うような文です。
訳知り顔で説明や感想といったレベルで書かれたものよりどれだけ読むに値する読み物か。これはなかなかヒットだなと思ってしまいました。
響氏はこのように書きます。
「女の聖域に、男が侵入する。物騒な話だけれど聖域と言っても声域のことでもあるのだから、安心して楽しめばいい。」と書き始め、「聴き手の聴覚が視覚を裏切り続けるのに、その裏切りがゾクゾクするほどうれしい」、「カストラートは、言わば改造人間だけれど、カウンターテナーは「芸の力」で今に咲き誇る華だ。」と来る。
「こぼれでる音の粒が、狙った高さに驚異の精度で命中する。命中した音は、聴く者を骨抜きにする甘美な毒となって届く。」「一瞬だけ「男」の声に戻るちやめっ気には、会場がどよめく。高貴・清浄と、通俗・妖艶(ようえん)が混じり合って危険な魅力。」「『めちゃカッコええねえ』と叫んでいた若い女性も、英国古歌の連想から中世英文法を論じ合っでいた初老の紳士も、この危険なにおいのする不思議な時間に酔っていた。」そしてトドメに、「クラシックやポップスといった垣根はない。物珍しさでもいいから、聴いてみよう。幸福がある。」といって結んだのです。
この文、気に入ってしまうでしょ。
しかし、しかしです。"何か欠けている"。つまりこの文章から舞台と観客の様子、雰囲気は伝わってくるのですが、演奏された曲の世界が見えてこない。理想の批評とは会場、演奏者、聴衆、そして、作曲家とその作品の世界を「時評」として伝えることだと私は思っています。前回にも書いたことですが、限られた紙面ではそこまで要求するのは酷だと知りながら、敢えて望みたい。
作曲家−作品−演奏者を結び、現代社会を論じる。それが「批評」なのですから。