第9回

critique(3)

前回、改めて批評のことに触れ、決意を新たにしたところでした。
私の求める具体例を示さないでいたことが少し気になっていたところ、実にタイミング良く毎日新聞夕刊9/13、好例に遭遇しました。
「期待どおりのトリオ」と題した同志社大学助教授(現代芸術論)の清水 穣氏の評です。(今回始めてこの方の評を拝見したことになります)
評は次のような構成になっています。
まず、

  1. 出演者の紹介
  2. 短い総体的な著者の印象
  3. 曲の解釈
  4. 具体的な演奏の描写
として筆が進んでいきます。
制約された少ない字数で、よくまとめられた好例ではないかと思います。

ちょっと書き出して見ましょう。
「はたして期待は裏切られなかった。一曲目、バルトークの第6四重奏曲のように沈痛なユン・イサン(漢字が出ないためカナで表記ー当間)の作品は、この作曲家の苦悩に満ちた戦後史を回想させずにはおかない。東と西という通俗的な区別や音楽語法の新旧を超越し緊張感に満ちた音楽はあくまでも美しく、そこにユンの普遍性がある。チェロの開放弦と上昇するヴァイオリンの音は救いの暗示か。」
この後ベートーヴェンのop.70-2に触れ(ここでは割愛)、細川俊夫の新作の評へと進む。
「刻々と流れる雲のように微かに変化する弦の持続音へピアノが静かに音の影を落とす。遠くへ旅立ったユンを追悼しながらも様々な思い出は声にならない歌となり、夢の中の「遠景」のように沈黙した佳曲。」と、演奏には触れずに作品の紹介。
「ラストはブラームスの傑作、ハ短調トリオop.101。細川作品の沈黙への反動か、激しく少し走り気味に始まったが、3楽章の半ばほどで落ちつき、追憶に満ちたロマン的憧憬を盛り上げる。終楽章は様々に分割される8分の6拍子を精妙な合奏でまとめて華々しいフィナーレを飾った。」
そして、最後にアンコールの紹介をしてこの評は終わります。

派手な印象を与えない文ですが、最小限の情報は盛り込まれ、それでいて、私が言うところの<作曲家><作品><演奏家>を評し、このことによって著者も学者としてのスタンスを示しています。

清水氏は評をこれまでにも多く書かれておられるのでしょうか。
これからも貴重な記録として、「今」と「未来」と「過去」をつなぐ音楽評を展開していって頂きたいと思います。

私は見てきました。
最初のうちはバランスのとれた、あるいは一つ一つ丁寧に論じていたものが、抽象的な感想論になり、美しい言葉で飾り、文章表現にこだわり、印象論となっていく「音楽評論家」の過程を。
「印象論」や「演奏家評」で終わらず、<作曲家><作品><演奏><聴衆>を結び、未来に開かれて、演奏家にとっても、そして聴衆にとっても、記録として歴史を刻んだ「評論」を望みたいのです。