第12回

Critique(4)

最近読む「音楽批評」にうんざりしていました。
新聞も、そして雑誌にもです。
音楽批評を「評」する意欲が湧いてこないほどひどいものばかりです。
それを説明するにはどうしたらよいかと悩んでいるうちに、またもや素敵な批評に出会いました。
以前にも紹介した(Critique[2])、響 敏也氏の音楽評です。
朝日新聞10/17(夕刊)に<息詰めて聴く「第九」の健康美>と題された批評文です。
氏の書く文の歯切れの良さ、流れの良さは読む者にスッキリした印象と爽やかさを与えます。
そしてなによりも大事なことだと私は思うですが、氏の「評」しかたの核には演奏者への温かい眼差しが感じられることです。
氏の文章からは、「私こそクラシック音楽の鑑定士」といったような接し方の印象はありません。(この鑑定士タイプが多いですね。つい最近読んだある新聞での音楽評などは読み終わった後味がとても悪く、気が重たくなり、この音楽評論家の心は索漠として可哀想だと思ってしまいました)
響氏の文章を読んでいると音楽の楽しさが伝わってきます。これはきっと、氏自身「音楽を享受する喜び」が基調となっているからではないかと察せられます。
全文を書き出してみましょう。

<名にしおうベルリン・フィルなんだから、うまい演奏をしたって驚かない。それより、彼らが日本の「第9の季節」より一足早く大阪に運んできた「第9」の、姿の美しさにこそ息をのんだ(13日、ザ・シンフォニーホール)。
この夜が彼らの日本公演の初日だった。ベルリン・フィルはカラヤン指揮の時代から、大阪のこの会場がお気に入りで、日本公演にここでの演奏会が含まれるのを強く希望しているという。今回も二日間こもりきってのリハーサルのあと、初日となった。
世界屈指の名門が、相性のいいホールで、入念な準備をしての演奏は、やはり圧巻と言うよりない。ただし、その輝かしい出来栄えは、現在の芸術監督アバドの指揮によるところも大きい。
アバドがカラヤンの後任に選ばれて7年。過去二回この楽団と来日しているが、今回の演奏で、アバドの意志がオーケストラのすみずみにまで徹底してきたのが、よく伝わる。凝った照明のなかで浮かびあがっていた豪壮華麗な建築物が、わずかなあいだに、青空の下でさっそうと立つギリシャ彫刻に変身した、と言えそうだ。
明るい。鮮明だ。重苦しいところがない。もちろん「第9」だから、ベートーヴェンならではの音がする。ただ、それば筋肉質なのだ。贅肉(ぜいにく)がない。おしゃれのためでなく、正しくダイエットした健康美に近い。
音楽は通常より快速に進む。アバドによる原典譜研究の成果は、この耳慣れた作品に、時折新しい風景をつくりだす。
やや淡々と短めの音だった金管楽器は、あの歓喜の主題に至って猛然、音をたっぷり保ち始めた。効果は圧倒的だ。マクネアー、タラーソワ、ハイルマン、シュルテの独唱陣は、この曲がいとも簡単なように軽々と快唱。そうしてスウェーデン放送合唱団、E・エリクソン室内合唱団の、矢のように飛んでくるハーモニーの鮮烈なこと。
入手困難な切符を幸運にも手にした聴衆は、楽章のあいだで、思い出したように呼吸をした。これは息を詰めて聴く美しい儀式だ。>

どうです。
読み終わった後、演奏会場に居合わせなかったのが残念な気持ちにさせられます。しかし、演奏の状態をよく伝えているため音楽の素晴らしさが手に取るように伝わってきます。
響氏の、贅肉がない健康美の文章によるところが大だと思うのですが。