第16回(97/1/12)

シューベルト生誕200年に想う

今年はシューベルトの生誕200年にあたるそうです。
よく大作曲家の生誕何周年記念とか、没後何年とかで特集を組む習慣がありますが、安易な取り組み方の演奏会は良くないとしても、ある作曲家に焦点を当てて聞き入ることは意義あることだと思っています。
今年はシューベルトの事を想う一年となりそうです。

先日、教育テレビで「シューベルトを歌う」と題する番組が始まったのを見ました。
私が昔よく聴いたあのフィッシャーディスカウが講師と聞けば、見ないわけにはいきません。
ちょっと今回はこの第一回目を見た感想を書いてみようと思います。

受講生は日本人とドイツ人で、この日の受講生は日本人女性。
フィッシャーディスカウの指導は決して理論的、学者肌的でなく、あくまでも豊富な経験を通した偉大な芸術家(声楽家)としてのレッスンといった趣です。
しかし、時折歌うフレーズはやはり素晴らしい。ドイツ語の子音の問題、そしてアクセントのある母音からアクセントの無い母音に移る抑揚のアドバイスは興味深かったと思います。
リートでは日本人にありがちな声を聴かせようとする姿勢はふさわしくないものです。
ビブラートや音程も気になりました。
フィッシャーディスカウはその辺に対しても意識した指導をしていたと思います。

このレッスン風景を見ながら考え込んでしまいました。
番組の最後に流れていたフィッシャーディスカウの歌を聴いたときにハッと気がついたのですが、大芸術家の歌であるからとか、巧いという理由からではなく、あるいは当然ながらドイツという自国の作曲家の歌を歌っていたからというのではなく、その歌には借り物でない自然な実存感がありました。
受講生の歌にはそれを感じることができません。
未熟だからということではないと思うのです。彼女の歌にはそれなりの<歌>もあり、聴かせもするかもしれません。でもそこには作曲家と聴衆の間に彼女が立ちはだかっています。
心に訴えかけてくる<歌>とは、作曲家が感じ取った<衝動、心象>を聴衆の心の中に再生する役目を果たすことです。
演奏家が作曲家の<衝動、心象>を追い求めることなく、自らの存在を誇示しようとするならば、そこには真の<歌>はありません。

演奏家は作曲家の前に立ちはだかるのではなく、作品を通して作曲家と聴衆を結べなくてはならないのです。
逆説的なのですが、その過程の中でこそ演奏家は強く存在をアピールすることができるのです。
残念ながら我が国のクラシック界はまだまだ真の実存感が希薄です。
この問題とどう取り組むか、それが私の一貫した課題です。
<シューベルト生誕200年に想う>それは偉大な芸術家シューベルトの<衝動、心象>をどう私が受け取り、享受するかという思いなのです。