第19回('97/2/16)

メランコリーについて

先日我々の新春パーティー(懇親会)で、「日本人は真のメランコリーを持たないがゆえに芸術も哲学も育たない」というような主旨のスピーチをゲストの方から頂きました。
この方はいつも辛口の講評をしてくださるので私はいつも楽しみにしています。
この時のスピーチもいろいろな話題が飛び交い、氏特有のユーモアを交えてのお話でした。
その中に上のような主旨の発言をされたのですね。以前このことについて考えたこともあり、久しぶりにメランコリー(私は孤立感、孤独感といった言葉を使っていましたが)について思いを馳せました。

日本人は極力孤独を避けたがり、孤独になることを恐がっている、と私は常々思っています。
しかし、孤独感を味わうこと無く人間に対する考察など深まるものではありません。
じっくりと自分と向き合う。人生について考える。これは孤独になって始めて見えてくるものが沢山あるわけです。
いったん家を出て街に出れば、心休まる場所がない。これが私たちが住む都会です。
静かに一人になれる場所は本当に少ない。
喫茶店ではサービスだと言って音楽が鳴り響き、ここかしこで群れていつもハイ状態の若者たち、その若者たちにターゲットを絞った販売商戦の騒がしさ。
いざ静けさを求めて都会を離れても、いきなり大音響の「演歌」に歓迎を受けたりする。
どこにいてもこの国は騒がしい。
こういったところに哲学など育つものか。氏と共に私もそう思ってしまいます。

哲学など持たなくてもこの国での生活には困りませんね。いや、なまじっか持ってしまうと暮らしにくくなるのがこの国かもしれません。
このようなところに伝統的な音楽も、ましてや構造的な西洋音楽など育つわけが無いと思うのですがどうでしょう。

私はその原因の一つを歴史観の欠如ではないかと思っています。
過去に習い、現在に試み、未来に残す。
現在ばかりに目を向けすぎると(現代の日本はこれが少しばかり強いかもしれません)未来に託す喜びが持てなくなります。
人間にとって<今を充実して生きる>ことは当然のことです。
その<今>が未来の社会≠ノとっても必要にと願えることならば、どれほど<今>の生活が充実したものになるか。

一日のうち、少しばかり音の無い、静かな時間があればいいですね。
<孤独>を楽しみたいと思います。
さまざまなことに思いを馳せる時間、自由な時間、私の時間です。

他人のことが理解できない不安、心を求めても与えられない不安、不信の募り。だからこそ、自分と自分以外の者と対話できる音楽に私は生きるのでしょう。
私と私の仲間で創る音楽を人は「温かい音楽」と評してくださいます。
もしもそう聴いていただく演奏となっているならば、それはきっと私の孤独からの連帯の叫びなのかもしれません。