第20回('97/3/6)

合唱の復権を!

私はとんだ時代錯誤をしているのではないか?と、不安になることがあります。
合唱音楽の見直し、という思いが強いのです。
器楽と同レベルまで引き上げたいと思っているのです。しかし、正直言ってこれは人の意識の変革かもしれません。その思いはごり押しであり、傲慢ではないだろうかと少し自虐的になってしまうことがあるのです。

声楽って器楽と比べると低く見られているのではないかと思うのですがどうでしょう。そしてそれ以上に合唱はもっと低く思われているような気がするのですが。
これを読んで下さっている方々は「そんな事とんでもない!」「思ったことも、感じたこともないよ」と言われるかも知れないのですが、少なからずオーケストラの人達や、器楽奏者の人達と接していてそう思うことが今まであったのですね。
また、歌っている人の中にも「私たちはやっぱりダメね」などと言う人がいるんです。
告白すれば、私なども音楽を志した時には<声楽>をバカにしていました。どこかいい加減で、うぬぼれ屋で、しかも練習などしないでも声は出せる。我々は決まった時間に毎日練習をしなければならない。「いい気なもんだ」などと思ったものです。
小さいときから歌をうたってきた私です。「指揮がしたい」という不純な動機だったとはいえ、オルガンも30年程引き続けました。器楽、声楽両面を意識し続けたことはホントに良かったことだと思います。
それだからこそ、「合唱音楽」に見直しと変革をと思っての活動が始まったのです。

現代はテクノロジーの時代です。こうして私もパソコンを操作しています。人間が道具に凝り、その操作に面白さと価値を見出すのは当然のことだと思います。
機械を操ることが人の能力の高さを決める基準になっています。
音楽の世界でもそうです。ヴァイオリンを奏したり、ピアノを弾く人たちのように、楽器という道具を巧く操作できる人ほど尊敬される要素が強く、価値も高いと思われがちです。
生の声を使っての声楽の復権が「人間性の尊重、復活」にある、などと大袈裟なことは言いますまい。
「合唱音楽」がもっと面白く、その高度な技術にももっと関心を集めることができればいいのです。
演奏のレベルが器楽のレベルに達すればよいのです。
声に甘えることなく、独唱が、そして合唱が技術の錬磨を目指すものになればよいのです。技術に裏付けされた声の魅力を一層増せばよいのです。
声は完全な楽器の一つなのですから。

人の誕生からルネッサンス(〜1600年)までは「声」の文化でした。特にヨーロッパでのルネッサンス時代は声楽(合唱)の興隆の時代であり、成熟し、完成された時代でもありました。
今私が目指すのは新しい時代としての現代、及び未来へ向かう現代としての合唱音楽の追求です。
「合唱の復権を!」
それは現代の「新しい合唱」を携えての復権なのです!

第20回「合唱の復権を!」この項終わり